ゲルハルト・リヒター展

ようやく書くことができた。

半月、いやもうちょっと前に見に行った展覧会のレビューを残しておこう。

***

<私とは何なのか>

と深く問われる展覧会だった。

先月、豊田市美術館で開催された「ゲルハルト・リヒター展」に足を運んだ。
昨年、東京国立近代美術館で行われた展覧会の巡回展だ。

出品されている作品は具象画、抽象画も多かったが、鏡やガラスを用いた作品が多くあることが心に残った。鏡やガラスに映る自分自身を見ながら、「私」という存在を意識せざるをえなかったのである。例えば、ドイツの国旗の3色や、血のように赤一色に着色されたガラスに自分自身が写っているのを見て、「私はどのように世界に染まっているのか」と自問した。左半分は黒、右半分は赤、伸ばした手の先は金色(黄色)などとバランスを変えながら作品と対峙しながら、最初は<私の組成>ということを考えた。私を創っているものは何か、と。だが、その問いはいつしか<私は何者なのか>という問いに変容していった。

<私は何者か>という問いは、「8枚のガラス」という作品を前にしたとき、強く意識せられた。ガラスの中に幾重にも重なる自分自身の姿が映し出されたとき、私という存在がゆらぎ、自我の不確かさがわたしという存在を席巻したが、同時に過去から現在に至り、そしてまさにガラスの前に現在している私という存在に続く時間の流れ、言い換えれば、“私という歴史”の流れを否応なく意識させられ、私自身がどのように存在してきたか、また私が何を視てきたか、あるいは何を視ているかというということを強く意識させられたのである。ガラスに映る私は、遠くなるにつれ、ややぼんやりと映し出されていたために、余計にそう感じたということもあるだろうか。

この、<私は何を視ているのか>という問いは作品の中を歩き回っている間中、常に私と共にあった。「アブストラクト・ペインティング」という作品群、特に「ビルケナウ」という作品の前に立ったとき、この問いは強く迫ってきたのであった。白と黒と、ところどころ赤と緑が塗り込められた巨大な4枚のキャンバスに、作家という実存が行為した爆発的発露の痕跡が残っていた。もっと言えば、実存の叫びがそこにあった。作家の最も奥にあるであろう意味というところからの叫びである。遺体を焼いている素描を下敷きにしてそこに絵の具を盛り、削り取られたこの絵を前にして、アウシュビッツを初めとする強制収容所でのジェノサイド、加えて社会に重く垂れ込める出口の無い全体主義の空気を見た。作品の、この圧倒的な力に押し倒され、しばらく呆然と立ち尽くし、私は歴史を知らなかったと痛感した。歴史用語を学んだり、本を読んだりしていくらか知ってきたつもりであったが、実はほとんど何も視ていなかったと。

清濁さまざまな情報が、まるで土石流のように轟々と音を立てて流れていく現在に身を晒しながら、一炊の夢のごとく1日、1ヶ月、1年、10年が過ぎ去ってゆくが、この急流の中でわたしはいくつの現実をこの眼でしっかりと捉えただろうか。私の眼は何を視てきたか。

そんなことを、私という存在に深く問うてくるとても良い展覧会だった。今回の展覧会で突きつけられたこれらの問いへの答えは、そう簡単には出そうにないが、これからの私の一つのテーマになっていくことは間違いがない。

今年90歳?を迎える作家が、近年になってようやく「ビルナケウ」を描きあげ、その後しばらくしてアブストラクト・ペインティングの筆を擱いた後、最近描いているという水彩画やドローイングの作品に、大いなる仕事を終えて達した作家の境地と救いをみたことを最後に付け加えておきたい。

今年もおわり@2021

2021年も、残すところわずかとなった。

今年はどんな一年だったろう。


毎年恒例の清水寺の今年の漢字。

今年は「金」だそうである。

オリンピックや給付金などあっての「金」なのだそうだ。


またビジネスパーソンが選ぶ今年の漢字というのもあるようで、こちらは「変」を選んだ人が一番多かったという。コロナによって変化を強いられ、変革がもたらされたなどの理由があるという。



ということで、私もちょっと考えてみた。 今年のいろいろなことが回想されて、漢字一字で表すのはなかなか困難に思われたが、強いて私は「顕」という文字にした。

1 短歌雑誌に投稿したところ、冒頭の歌に選んでいただき私の歌と名前が顕わになったから「顕」。
2 先日の健康診断でお腹周りの凹みが顕著だったから「顕」。
3 編集に携わった本が出版され、世に顕現したから「顕」。
4 半年にわたる毎週の社内研修を駆け抜けた結果、教えた後輩たちの成長が顕著だったから「顕」。
5 デルタ株などありコロナウィルスの増加が顕著だったから「顕」。
6 コロナが猛威をふるう中で行ったオリンピックや、安倍・菅・岸田政権のたくさんのバカバカしい所業、モリカケ事件における国政を動かしている者たちのバカバカしい対応、請求を認諾することによって膿の所在が逆に明らかになってしまった事実などなど政治や経済をめぐるたくさんの愚かな所業が顕わになったから「顕」。


さて、来年はどんな年になるだろう。

個人的には来年はいくつか面白いことを仕掛けていければと考えている(毎年こんなことを言っているが、来年はちょっと動きそうな気配を感じている)。

2022年が国内でも世界の各々の地域においても、
穏やかで光あふれる一年になりますように。

お、2022年がそこの扉の向こうまで来ているみたいだよ。

ね?足音が聞こえるでしょ?

それでは、みなさま、良いお年を。

シュハキマセリ。

まもなくクリスマスである。

駅前には大きなクリスマスツリーが立ち、

聖なるイベントの到来を告げている。

ラジオを聴いていたら『もろびとこぞりて』の歌がかかっていた。


ふと「シュハキマセリ」ってどういう意味だろうかと疑問がよぎった。

昔から「シュハキマセリ♪シュハキマセリ♪シュハ~シュハ~キマ~セ~リ」と歌っていて、サイダーがグラスの中でシュワシュワ泡を立てているようなイメージをしていたが、今一度真剣に考えてみようと思ったのである。

ということで品詞分解をしてみた。

諸説あるかもしれないが、私は以下のように理解した。

なお、旺文社『古語辞典』を参照した。


「主は来ませり。」

・主(名詞):イエス・キリストのこと。

・は(係助詞):あることを特に取り立てていう意。

・来(カ変「来」連用形):来るの意。

・ませ(サ行四段(補助動詞)「ます」已然形):「お~になる」

・り(完了「り」終止形):た。

これらをつなげて考えると

「主(イエス・キリスト)はお越しになった(or おいでになった)。」ということになるだろうか。

一件落着。

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活字渇望症

ほぼ3年ぶり!のブログの更新である。

3年も更新が無いのだから、ああ、もうこのブログもご臨終だなと思われたかもしれないが、一炊の夢、盧生がちょっと居眠りしていただけである。気長にお付き合いいただければ幸いである。

さて、今回は活字渇望症という話。

先月まで、何かといろいろと立て込んでいて、ゆっくりと本を読む時間がとれなかった。もっとも、仕事などで書面を読んだり参考になる文献を読むことはあったから、まったく文字を読んでいないわけではなかったが、自分の好きな本を読む時間がとれなかったのである。私は普段、通勤電車の片道約30分を読書タイムに充てているが、その時間もなんだか本を読めなかったのである。

いまは水を得た魚のように、日々活字を吸収している。

さてさて、先月、読書から少し離れていて感じたことがあった。はじめのうちは意識しなかったが、次第に活字渇望症のような感覚が顕れてきたのである。喉が渇いているような感覚。水を飲みたいという渇望感にも似た感覚だった。

あ、、、と私は思った。

この感覚はどこかで感じた感覚。

そうだ、中学3年の頃だ。

記憶は、高校受験を前にした中学生3年生の時代に繋がった。

私の中学時代はグレーな時代であった。友人関係や学校生活は可もなく不可もなくそこそこの生活をしていたが、精神状態は荒廃していた。私はいつも、砂漠の中にいると感じていた。一面砂ばかりの景色。潤いはなく、一陣の風が吹くと砂が舞い上がる。砂嵐になることもある。誰もいない砂漠。思春期の憂鬱。

そんな砂嵐吹きすさぶ生活の中で、国語の授業やテストで読まされるのは、問題を解くためだけに引きちぎられてきた断片的な文章たちばかり。国語の授業も、私の好奇心をそそるものではなかった。

今思うとなぜだろう?と思うけれど、積極的に国内外のいろんな本を読もうという気にもなれなかった。

いつしか、私は活字渇望症になった。

中学校を卒業し、高校受験を終えると、その開放感も手伝って、私は放たれた鉄砲玉のように本屋に走った。本屋さんの棚で、暫く棚を眺め、好奇心に任せて、並んでいる本の中で一番厚い本でしかも作家の名前は知っていても読んだことのない本を手にとった。

大江健三郎『燃えあがる緑の木~救い主が殴られるまで~』。

急いで帰って、勢いよく読み始めたが、これがまた全く理解できなかった。まずもって、ストーリーが追えないのである。加えて、登場人物像も掴めないのである。「ギー兄さん」や「サッチャン」という人物名はわかっても、性を転換していたり、かなり複雑な内情があって、全く理解できなかった。

それでも、全体の4分の1くらいは読んだろうか、遂にこの本は挫折するに相成った。

中学3年の頃の活字渇望症は、この挫折の記憶につながっている。

はい。若かりし頃の思い出。おしまい。となりそうだが、実はこの話には後日談がある。

高校1年になり、そんな話(大江健三郎を読んで挫折した話)を私は同じ図書委員だった同学年の友人に話した。するとその友人は「そりゃ、当たり前だよ。」と言って笑ったのである。聞けば、大江氏の作品は、彼の一連の作品が一つの大きな物語になっていて、途中の1冊を読んでみても、前の話がわからなければ、理解できなくて当然だ、と言うのである。

そんなことを話し始める友人なんて初めてだったし、自分よりもうんと広い世界を知っていて、うんと本を読んでいる友人に出会うのは初めてだったから、私はほんとうに驚いたし、良い意味でほんとうにショックを受けた。かくして私の読書体験を語る上で、彼は欠くことのできない友人となったのである。彼は、上記のように話してくれたあと、大江氏の『死者の奢り』を紹介してくれた。私は学校の帰りに精文館書店で新潮文庫を一冊買って読み始めた。

もいっこ付言すると、『トーマの心臓』という作品を貸してくれて、萩尾望都氏を教えてくれたのも、彼だったな。彼とは、大学に入って以降、長らく連絡を取れていないが、元気にしているかなとたまに思い出すのである。

活字渇望症の話から思い出話になってしまったが、まだ青い頃の思い出。

新元号を考える

先日のブログで、「わたしの新元号」を書いたが、新元号の発表がいよいよ迫ってきた。どきどき。テレビやラジオ、新聞でも、どんな新元号になるのだろうかと様々な案が飛び交っている。
私も、いくつか考えてみた。少し残しておこう。
なお、これは順不同であって、上の方に書いたものが優位などということではない。

·「坤和」:こんわ(または「こんな」と読んでもよい)
→ 天地が平和であってほしいという祈りの案である。「坤」は「ひつじさる」という字だが、古来中国では「乾坤(けんこん)」で「天地」を意味した。ちなみに「乾」は「いぬい」と読み、「乾」「坤」いずれも、方角を指す言葉であり、そこから「天地」という意味に転じている(これは、十二支の各文字を東西南北に当ててみるとよくわかる)。例えば、唐の詩人杜甫は、漢詩「岳陽楼に登る」の中で、「乾坤日夜浮」(広大な洞庭湖の水が、昼も夜も全宇宙をその上に浮かべている)と書いている(前野注解『唐詩選(上)』岩波文庫)。ほんとうは、天地が平らかになってほしいということで「乾坤」という両字を入れるべきだが、2文字の制約から「坤和」とした。

·「坤治」:こんち
→「坤和」と同様で、天地が治まる、という意味である。


·「青秀」:あおほ

→これは、我が国が美しい国であり、国々の中でも大変秀でた国であって、新しい天皇の御代も、いやまさって世界をぐいぐいと牽引してほしいという願いの案である。出典は『日本書紀』(『古事記』にも記載がある)。景行天皇の段に出てくる倭建命が読んだ歌「倭(やまと)は、国の真秀ろば(まほろば)、畳靡就(たたなづ)く、青垣山、籠もれる、倭し、麗し」から取っている。意味は、やまとは最も優れた国。青々とした山が畳み重ねたように連なって生垣のように包んでいる。やまとの国は美しいなあ、ということである。


·「真秀」:まほ

→これも「青秀」と同様の理由である。

·「円融」:えんゆう
→「円融」とは煌々と照る満月の意味である。新たな天皇の御代も円満で、世界中のさまざまな闇路に光を与える、そうした国になってほしいという願いである。出典は空海(弘法大師)の『性霊集』(「中寿感興の詩、并びに序」)にある「長夜念円融」(じょうやにえんゆうをおもえり)より。

·「曜朗」:ようろう
→これも出典は空海さんの『性霊集』(「中寿感興の詩、并びに序」)。ここある「三曜朗天中」(さんよう、てんちゅうにほがらかなり)という言葉から取っている。三曜とは、太陽、月、星の意味であり、「青空を仰げば、太陽も月も星も、あのように輝いている」ということである(加藤精一『「性霊集」抄』角川ソフィア文庫。弘法大師関連の出典はほかも同様)。三曜が朗らかに輝く中で、我が国も朗らかに輝いていくような時代でありたいという願いである。

·「和順」:わじゅん
→これも空海さんの『性霊集』(「大使福州の観察使に与うるがための書」)より。この中に「わが日本国、つねに風雨の和順なるを見て定んで知んぬ」とある。これは、天候に恵まれて天下が太平である、という意味であり、この願いをこめた案である。

·「淳質」:じゅんち
→これも空海『性霊集』(「大使福州の観察使に与うるがための書」)より。ここに「世淳(あつ)く、人、質(すなお)なるときは」とあり、「世界が穏やかで、人が素直であるとき」という意味である。こうした世の中になってほしいという願いの案である。

·「康哉」:こうさい
→出典は、空海『性霊集』(「元興寺の僧中璟が罪を赦されんことを請う表」)より。ここに「天地感応して風雨違わず。四海康哉にして百穀豊稔たり。」とある。「(天皇が仁政を行われたことを)天もそのことを感じられ雨風も順調、四海泰平、百穀豊かに稔」ってきたという意味である。新たな御代は、天地自然も国内外も豊かに順調にめぐってほしいという願いである。

·「皎然」:こうねん
→空海『秘蔵宝鑰』(「秘密荘厳心」)にある「一切有情は心質(しんぜつ)の中に於いて一分の浄性あり。衆行皆備われり。其の体極微妙(みみょう)にして皎然明白(こうねんみょうびゃく)なり。」から取っている。ここでの「皎然」とは、清くして明白であるという意味だとのことだが(宮坂宥勝『空海コレクション1』ちくま学芸文庫)、私は、満月が真っ暗な空に煌々と輝いて、そしてそれは同時に清らかであり円満であるという意味にも取れるのではないかと感じた。新たな御代も、様々な社会的事象は次々と起こってくるだろうが、それでも清らかで円満であってほしいという願いを私は込めた。

·「青陽」:せいよう
→謡曲『鶴亀』(流儀によっては『月宮殿』)の冒頭の詞章から。新春のさわやかな光がさすイメージであるが、新たな時代もそうした治世になってほしいという願いである。

·「谷神」:こくしん
→これは案としてはどうかな?という感じだが、個人的には非常に好きな言葉である。これも弘法大師の『性霊集』所収の「山中に何の楽しみかある」からの出典である。「澗水(かんすい)一杯、朝(あした)に命を支え、山霞一咽夕(ゆうべ)に神を谷(やしな)う」。「神を谷う」とは、精神をやしなう、あるいはこころをやしなうという意味であるが、時代が変わっても、常にわたしたちはこころをやしなっていかなければならないなあと思うのである。

さて、いくつか案を考えてきたが、今回私は日本の文献に多く拠ったつもりである。「平成」は先のブログでも書いたように、『書経』と『史記』から取ったということだが、我が国の元号を決めるのだから、こんどは我が国の先人たちが残してきた文献から取ってみようと考えたのである(空海さんの文章からの出典が多いが、彼の文章や言葉がとても美しいことを改めて理解したのであった)。

さあさあ、新元号の発表はついに今日になってしまった!!
(よかった、この記事間に合った。。。)
新たな元号はどんなものになるのだろうか。
そして、次はどんな時代になるのだろうか。

“わたしの新元号”

今上天皇が退位され、皇太子さまが新たな天皇に即位されるまであと1ヶ月あまりとなった。これに伴って改元が行われるが、新たな元号の発表が近づいている。

64年間続いた昭和という時代は、高度経済成長というめざましい発展の時代でもあったが、同時に戦争、そして敗戦という激しい経験をした時代でもあり、昭和を生き抜いてきた人々は、次に来る新たな時代は、戦争がなく国家という大きな怪物にわたしたち市民の命が脅かされることのない、文字通り平和な時代になって欲しいと強く望んだに違いない。かくいう私も昭和50年代半ばの生まれだから昭和を生きてきた一人だが、昭和から平成に代わった当時は小学生だったから、毎晩、NHKニュース7の冒頭と終わりに報道される「天皇陛下のご容態」と大喪の礼、そして当時の小渕官房長官による「平成」の発表など一連の動きに、大きな時代の変動を肌で感じていながら、昭和の先人たちの強い願いまでは、よくわからなかったというのが正直なところである。大人になってぼつぼつとわかってきたけれど。

そんなたくさんの願いを込めてスタートした「平成」も30年の時を経て、今年、幕を下ろすことになる。
「平成」とは、『書経』にある「地平天成」と『史記』にある「内平外成」から取られたというが、いま思えば、まさに当時の人々の強い願いが聴こえてくるようである。

元号とは何であろうか。
私は元号とは、新たな時代に生き、その時代を創っていく人々の希望であり、願いであり、祈りのかたちであると感じている。そうであれば、新元号が発表される前の今の時期に、新たな時代を望んで、あるいは当てっこのようにして(果たして当たるかどうかわからないけれど)大きな視野で新元号を考えるのも面白いだろうし、あるいはまたひとりひとりが新たな時代への願いや祈りを託して「わたしの新元号」を考えるのも面白い試みだろうと思っている。

わたしもいくつか考えていて、ぼそぼそと呟いていこうと思っている。

あなたはどんな新元号案を考えるだろうか。

*去りゆく平成への回顧というか、振り返りは、4月になってから書こうと思っている。

Live review:ティグラン·ハマシアン ライヴ

アルメニアのジャズピアニスト、ティグラン·ハマシアンのライヴに行ってきた。

私は実はティグランのことはよく知らなかったのだけれど、数日前の日曜日に、ラジオ番組Barakan Beatにゲスト出演していて(東京ジャズに出演していたようだ)、インタビューが面白かったし、今後各地を回るライヴをやるというので、んなら行ってみよう!!ということで足を運んだのだった。

会場はそれほど大きくないホールで、2,3日前にチケットを買って比較的後ろに座った私だったが、彼の紡ぐ音にまったく圧倒されたのであった。「音に圧倒される」。まさにそんな表現がぴったりくる「凄い」演奏で、演奏中は身動きができないほど、迫り来る音たちに心酔していた。そんな迫りくる音楽ではあるのだが、彼の音たちは実に温かいのだ。この衝撃は、私が大学生の頃、ロバート·ラウシェンバーグの『モノグラム』に出会った時のそれと似ているかもしれない。

プログラムは、ピアノソロあり、電子ループとピアノのコラボあり、口笛あり、ハミングあり、能管奏者をゲストに招いてコラボありなどなどバリエーション豊かにまとめられていた。特に能管とのコラボは、能管の響きが時にそよ風のように、時に地響きのように、また時に稲妻のように響き、ティグランのピアノが優しく、時に激しく掛け合っていて、その様子は、霧雨にけぶる山を遥かに見る大草原にいる心地がしたのであった。

ティグラン·ハマシアンの演奏は、映像的だと思った。
彼の曲を聴いていると映像が浮かんでくるのである。しかも広大な映像。川がゴポゴポと音を立てて流れ、目を横に逸らすと広い野原は広がっているような、そんな映像だ。アルメニアの景色なのか、はたまた行ったことのない異国の景色なのか。

ライヴのあとはリアルに放心状態で、音が身体の中に入り切らなくて、皮膚の上に溢れているのがわかった。

ティグラン·ハマシアン、素敵なアーティストだ。

私は彼のCDを1枚買って、その後何をどうやって家まで帰ったか、よく覚えていない(放心状態だったから:)  )。

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読書感想文·代行業!?

お盆が終わり、8月も後半である。

世の中の子どもたちは夏休み真っ盛りで、朝夕の通勤電車は賑やかな声で包まれている。“ねずみ園”の大きな袋を大事に抱える子らも多く見かける(おじさんとかもいるけど)。地方に帰省したり、遊園地に行ったり、おじいちゃんおばあちゃんにお小遣いをもらったり、お墓参りをしたり、親族が集まったり、楽しい時間を過ごしている子どもたちも多いだろう。

だが、そんな楽しい夏休みも残り半月弱を残すのみである。

8月も後半になってくると、まるで牡丹燈籠のお菊のように、すーっと音もなく井戸の中から現れてくるのは、夏休みの宿題である。

昼下がりの気だるい暑さと肌を流れるクーラーの冷風、汗をかいた麦茶のグラスと、壊れた時計のアラームのように調子の外れた蝉の声を聞きながら、私も小中学生時代は、憂鬱な夏の終わりを過ごしたものだ。特にこの憂鬱さに拍車をかけたのは、作文であった。

殊に、読書感想文。あれである。
本を読んで感じたことを書きましょう。あれである。
読書感想文は多くの場合、学校の先生たちが提出されたものを読んで、優秀だと思われた作品はコンクールに応募される。
そのコンクール。「青少年読書感想文全国コンクール」によれば、読書感想文を書く趣旨は「子どもや若者が本に親しむ機会をつくり、読書の楽しさ、すばらしさを体験させ、読書の習慣化を図る。」「より深く読書し、読書の感動を文章に表現することをとおして、豊かな人間性や考える力を育む。更に、自分の考えを正しい日本語で表現する力を養う。」ということのようだ。読書感想文の宿題はいまもまだ行われているみたいだ。

ところが!なんと!
昨今では読書感想文の代行業があるという(私は去年だったか一昨年だったかに知った)。しかも、最近では案外多くの利用があるというのだ。上記のように「読書の感動を文章に表現することをとおして、豊かな人間性や考える力を育む。」という考え方に基づいて読書感想文が課されているのだとすれば、賛否両論、侃々諤々の議論が飛び交うのも頷けるが、しかし読書感想文の代行業なんて、ちょっと面白そうな仕事ではないか!

よっしゃ、いっちょやってみようか!!

★読書感想文代行 概要★
【お値段】1文字50円。
→1文字50円だと400字詰原稿用紙1枚に付き20,000円。読書感想文はだいたい5枚以内だから、1本につき100,000円。

【対象】小中学生
【納期】1週間~2週間くらい。繁忙度による。
【課題本】以下の5冊のうちから、1冊お選び下さい。学校指定の課題図書や、お客様の書籍指定による執筆は応じかねます。なお、小学校低学年向の書籍を中学生がお選びいただくことも可能です。

(*以下著者等の敬称は略)
Aコース [小学生向] 空海『声字実相義』
Bコース [小学生向] ジャン·ボードリヤール『消費社会の神話と構造』
Cコース [小学生向] 山折哲雄·森岡正博『救いとはなにか』
Dコース [小学生向] オルテガ·イ·ガセット『大衆の反逆』
Eコース [中学生向] 浄土三部経より『観無量寿経』(中村元ほか註·岩波文庫刊)
Fコース   [中学生向] E.サイード『知識人とは何か』
Gコース  [中学生向] みうらじゅん『いやげもの』

こんな感じだろうか。

お値段がちょっと高いという声が上がりそうだ。
確かに、世に出回っている、読書感想文代行業の相場をみると、料金は原稿用紙5枚で、だいたい14,000円~25,000円程度のようである(1文字換算では7円~12.5円くらい)。しかし、考えてみれば本来、自分で本を読んで原稿用紙と格闘すべきところを、金で買うのだから、100,000円は安い買い物である。

***

こんな条件では、当然のことながら、依頼など来ないだろう(笑)。
まあ、仮に依頼が来たとしても、私は書かない。
提出点稼ぎのために代行業に頼んだとしても、読む者(たとえば教師とか)には本人が書いているかなんてわかる筈だし、代行業に頼んだ読書感想文を出したって、そんなものは出さない場合の点数とさして変わらないだろう。

そんなことを考えているうち、高校のときの恩師である家庭科の先生を思い出した。
私の高校では、夏休みになると「ホームプロジェクト」という家庭科の課題が出されたのである。進学校だったこともあり、周囲からは「受験勉強の時間を削ってそんなことをする必要があるのか!?」など批判も多かったようだ。しかし、その先生は、きっぱりと「家庭科は受験科目ではありません。生きていくための科目です。」と仰って、ホームプロジェクトは毎年夏休みの課題一覧の中にあった。ホームプロジェクトのおかげか否か、私は身の回りのことは一通りできるようになった。
読書も同様だろうと思う。
読書感想文は、ニンゲンが思考しながら生きていくための面白い宿題である。今では私はそう思っている。

かつて寺山修司の『新·書を捨てよ,町へ出よう』の解説で橋本治氏は「この書を持ちて、その町を捨てよ」と書いたけれど、まさに理性のみではない、肉体(ここには感情など体まるごと含まれよう)を刺激する書を持って、町へ出よう!! そう呼びかけよう。
どんな本でもよいだろう。あれやこれや全身で考えて、そのまま原稿用紙に書きなぐれば読書感想文などすぐに書き上がるものだ。

***

別に本なんて読んだって読まなくったって自由である。
けれど、一ついえると思うのは、本の中にはほんとうに深く心に迫るものたちが隠れているということだ。私たちに深い思索と示唆を与え、人生をたしかに豊かにしてくれているものたちが潜んでいるということだ。

多感な時期のひとたちが、読書感想文のためのみではなく、思考しながら、ときには遅疑逡巡しながら生きていくために、そういうものたちに出会っていくことを願ってやまない。

雲堂再開。

先日ブログで書いた、座禅アプリ「雲堂」がrestartしていたのである!
いまごろ気づいたのである!

進化するにつれ0に近づくという話にもあったように、警策機能は無くなり、twitter連携もなくなりシンプルになった。残っている機能は必要にして十分であるように思う。

強いて言えば、全世界で「雲堂」を使って座禅している人の累計も取ってしまってもいいのかもしれない。わたし自身の累計(回数・時間)があれば。
座禅を通じてわたしがどのような時間を過ごしたかを、少しだけ振り返ることができれば、それで十分であるように思うのだ。

一日を終えて自分の中心にもどるとき、
再びこのアプリがお供をしてくれることは、喜びである。

「雲堂」が再始動するんだって。~ゼロに戻るということ~

久しぶりのブログ更新。
2月である。と思っていたら、3月になっちゃった。まだまだ寒い日があるけれど、私は2月から3月はじめ、肌寒いこの早春が好きだ。光はまだ頼りなく、風も冷たいけれど、しかしたしかに、それらに春が薫っている。植物も来るべき春への支度を始めている。生命の息吹を感じる大好きなひとときだ。

さて、座禅アプリ「雲堂」が再始動するのだそうだ。
私はつい先日、下に貼付したyoutubeを見つけたのだが、アップロードされた日からすると、もう半年程前に発表になっていたようである。

「雲堂」(うんどう)という名前を初めて聞く方もあるかもしれないが、この「雲堂」は、2010年に、超宗派のお坊さんたちで作るネット寺院「彼岸寺」発のスマホアプリとしてリリースされた。
簡単に言ってしまえば、座禅タイマーである。
だが、単にタイマーというに留まらない、いろいろなアイデア、機能が詰まっていた。初めての人でも気軽に座れるように、座り方や呼吸の仕方のガイダンスがあったり、禅堂で僧侶にバシッと打たれる警策を疑似体験できる機能があったり、時間が経つにつれゆらめくお線香が短くなっていくフラッシュがあったり、ガイダンス動画を見ることができたり、はたまたtwitter連携していたり。
よくできた、“楽しい”エクササイズアプリだったのである。

しかし、iOSが10から11になったとき、更新がストップしてしまい、現在のiphoneでは使えなくなってしまった。好きなアプリであったし、私は、一日を終えた真夜中2時とか3時とかに、自分の中心に戻るべく人知れず座っていたから、使えなくなってしまってからは非常に残念な思いで現在に至っている。

そんな「雲堂」が近々再始動するらしいのである。うわお。 早くリリースされないかな♪と首を長くしている昨今。

さて、そんな再始動を教えてくれたこの動画だが、対談の中で興味深いことを語っている。徐々にアップデートならぬダウンデートを行い、ゆくゆくは「バージョン0.0、ユーザ0」にしたいという話が出てくるところである。
進歩することは良いことだという暗黙の時代の大波の中で、意識的に機能を削ぎ落としてエッセンスのみを残していく。そしていつしか、アプリそのものをも削ぎ落として「雲堂」が無くなっても、流れ行く社会の濁流の中で、皆が僅かな時間にでも静かな時間を持つことが習慣となり、いつでも本来の自分に戻る、まさに“undo”とともにある時代を求めるのは共感できるところである。その意味においては、ダウンデートは消極的な行為ではなく、むしろ積極的な行為なのだろう。進化する「雲堂」というか。

“undo”、“削ぎ落とす”ということを考えているうち、いつしか私は能楽を想起した。
能楽は、まさに有象無象のものを悉く削ぎ落とし(しかも積極的に)、エッセンスだけになってしまった芸術である。
舞台装置という点でも能は徹底している。ご存知のように、能舞台には歌舞伎や新劇のように緞帳というものが無い。見物は、最初何も無い舞台を見ながら開演を待ち、次第にどこからともなく聞こえるお調べと登場人物たちが織りなす物語に心奪われ、ときに興奮し、そして後シテの神々や霊たちが一瞬の華を見せたのちにそれぞれの場所に還っていく姿を見送って、再び私はひとり何もない舞台に戻ってくる。私はわたしの静寂な場所に戻ってくるのである。
この夢か現か判然としない夢幻の世界から、何も無い空間にひとりいる、わたしに戻ってくる感覚は、座蒲に座って目覚めたときの感覚と似ている気がする。
(ゼロに戻るという点は、もう少し思索する必要があるような気がしている。)

「雲堂」が再び利用できるようになることを待ち望んでいる。