ようやく書くことができた。
半月、いやもうちょっと前に見に行った展覧会のレビューを残しておこう。
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<私とは何なのか>
と深く問われる展覧会だった。
先月、豊田市美術館で開催された「ゲルハルト・リヒター展」に足を運んだ。
昨年、東京国立近代美術館で行われた展覧会の巡回展だ。
出品されている作品は具象画、抽象画も多かったが、鏡やガラスを用いた作品が多くあることが心に残った。鏡やガラスに映る自分自身を見ながら、「私」という存在を意識せざるをえなかったのである。例えば、ドイツの国旗の3色や、血のように赤一色に着色されたガラスに自分自身が写っているのを見て、「私はどのように世界に染まっているのか」と自問した。左半分は黒、右半分は赤、伸ばした手の先は金色(黄色)などとバランスを変えながら作品と対峙しながら、最初は<私の組成>ということを考えた。私を創っているものは何か、と。だが、その問いはいつしか<私は何者なのか>という問いに変容していった。
<私は何者か>という問いは、「8枚のガラス」という作品を前にしたとき、強く意識せられた。ガラスの中に幾重にも重なる自分自身の姿が映し出されたとき、私という存在がゆらぎ、自我の不確かさがわたしという存在を席巻したが、同時に過去から現在に至り、そしてまさにガラスの前に現在している私という存在に続く時間の流れ、言い換えれば、“私という歴史”の流れを否応なく意識させられ、私自身がどのように存在してきたか、また私が何を視てきたか、あるいは何を視ているかというということを強く意識させられたのである。ガラスに映る私は、遠くなるにつれ、ややぼんやりと映し出されていたために、余計にそう感じたということもあるだろうか。
この、<私は何を視ているのか>という問いは作品の中を歩き回っている間中、常に私と共にあった。「アブストラクト・ペインティング」という作品群、特に「ビルケナウ」という作品の前に立ったとき、この問いは強く迫ってきたのであった。白と黒と、ところどころ赤と緑が塗り込められた巨大な4枚のキャンバスに、作家という実存が行為した爆発的発露の痕跡が残っていた。もっと言えば、実存の叫びがそこにあった。作家の最も奥にあるであろう意味というところからの叫びである。遺体を焼いている素描を下敷きにしてそこに絵の具を盛り、削り取られたこの絵を前にして、アウシュビッツを初めとする強制収容所でのジェノサイド、加えて社会に重く垂れ込める出口の無い全体主義の空気を見た。作品の、この圧倒的な力に押し倒され、しばらく呆然と立ち尽くし、私は歴史を知らなかったと痛感した。歴史用語を学んだり、本を読んだりしていくらか知ってきたつもりであったが、実はほとんど何も視ていなかったと。
清濁さまざまな情報が、まるで土石流のように轟々と音を立てて流れていく現在に身を晒しながら、一炊の夢のごとく1日、1ヶ月、1年、10年が過ぎ去ってゆくが、この急流の中でわたしはいくつの現実をこの眼でしっかりと捉えただろうか。私の眼は何を視てきたか。
そんなことを、私という存在に深く問うてくるとても良い展覧会だった。今回の展覧会で突きつけられたこれらの問いへの答えは、そう簡単には出そうにないが、これからの私の一つのテーマになっていくことは間違いがない。
今年90歳?を迎える作家が、近年になってようやく「ビルナケウ」を描きあげ、その後しばらくしてアブストラクト・ペインティングの筆を擱いた後、最近描いているという水彩画やドローイングの作品に、大いなる仕事を終えて達した作家の境地と救いをみたことを最後に付け加えておきたい。