新元号を考える

先日のブログで、「わたしの新元号」を書いたが、新元号の発表がいよいよ迫ってきた。どきどき。テレビやラジオ、新聞でも、どんな新元号になるのだろうかと様々な案が飛び交っている。
私も、いくつか考えてみた。少し残しておこう。
なお、これは順不同であって、上の方に書いたものが優位などということではない。

·「坤和」:こんわ(または「こんな」と読んでもよい)
→ 天地が平和であってほしいという祈りの案である。「坤」は「ひつじさる」という字だが、古来中国では「乾坤(けんこん)」で「天地」を意味した。ちなみに「乾」は「いぬい」と読み、「乾」「坤」いずれも、方角を指す言葉であり、そこから「天地」という意味に転じている(これは、十二支の各文字を東西南北に当ててみるとよくわかる)。例えば、唐の詩人杜甫は、漢詩「岳陽楼に登る」の中で、「乾坤日夜浮」(広大な洞庭湖の水が、昼も夜も全宇宙をその上に浮かべている)と書いている(前野注解『唐詩選(上)』岩波文庫)。ほんとうは、天地が平らかになってほしいということで「乾坤」という両字を入れるべきだが、2文字の制約から「坤和」とした。

·「坤治」:こんち
→「坤和」と同様で、天地が治まる、という意味である。


·「青秀」:あおほ

→これは、我が国が美しい国であり、国々の中でも大変秀でた国であって、新しい天皇の御代も、いやまさって世界をぐいぐいと牽引してほしいという願いの案である。出典は『日本書紀』(『古事記』にも記載がある)。景行天皇の段に出てくる倭建命が読んだ歌「倭(やまと)は、国の真秀ろば(まほろば)、畳靡就(たたなづ)く、青垣山、籠もれる、倭し、麗し」から取っている。意味は、やまとは最も優れた国。青々とした山が畳み重ねたように連なって生垣のように包んでいる。やまとの国は美しいなあ、ということである。


·「真秀」:まほ

→これも「青秀」と同様の理由である。

·「円融」:えんゆう
→「円融」とは煌々と照る満月の意味である。新たな天皇の御代も円満で、世界中のさまざまな闇路に光を与える、そうした国になってほしいという願いである。出典は空海(弘法大師)の『性霊集』(「中寿感興の詩、并びに序」)にある「長夜念円融」(じょうやにえんゆうをおもえり)より。

·「曜朗」:ようろう
→これも出典は空海さんの『性霊集』(「中寿感興の詩、并びに序」)。ここある「三曜朗天中」(さんよう、てんちゅうにほがらかなり)という言葉から取っている。三曜とは、太陽、月、星の意味であり、「青空を仰げば、太陽も月も星も、あのように輝いている」ということである(加藤精一『「性霊集」抄』角川ソフィア文庫。弘法大師関連の出典はほかも同様)。三曜が朗らかに輝く中で、我が国も朗らかに輝いていくような時代でありたいという願いである。

·「和順」:わじゅん
→これも空海さんの『性霊集』(「大使福州の観察使に与うるがための書」)より。この中に「わが日本国、つねに風雨の和順なるを見て定んで知んぬ」とある。これは、天候に恵まれて天下が太平である、という意味であり、この願いをこめた案である。

·「淳質」:じゅんち
→これも空海『性霊集』(「大使福州の観察使に与うるがための書」)より。ここに「世淳(あつ)く、人、質(すなお)なるときは」とあり、「世界が穏やかで、人が素直であるとき」という意味である。こうした世の中になってほしいという願いの案である。

·「康哉」:こうさい
→出典は、空海『性霊集』(「元興寺の僧中璟が罪を赦されんことを請う表」)より。ここに「天地感応して風雨違わず。四海康哉にして百穀豊稔たり。」とある。「(天皇が仁政を行われたことを)天もそのことを感じられ雨風も順調、四海泰平、百穀豊かに稔」ってきたという意味である。新たな御代は、天地自然も国内外も豊かに順調にめぐってほしいという願いである。

·「皎然」:こうねん
→空海『秘蔵宝鑰』(「秘密荘厳心」)にある「一切有情は心質(しんぜつ)の中に於いて一分の浄性あり。衆行皆備われり。其の体極微妙(みみょう)にして皎然明白(こうねんみょうびゃく)なり。」から取っている。ここでの「皎然」とは、清くして明白であるという意味だとのことだが(宮坂宥勝『空海コレクション1』ちくま学芸文庫)、私は、満月が真っ暗な空に煌々と輝いて、そしてそれは同時に清らかであり円満であるという意味にも取れるのではないかと感じた。新たな御代も、様々な社会的事象は次々と起こってくるだろうが、それでも清らかで円満であってほしいという願いを私は込めた。

·「青陽」:せいよう
→謡曲『鶴亀』(流儀によっては『月宮殿』)の冒頭の詞章から。新春のさわやかな光がさすイメージであるが、新たな時代もそうした治世になってほしいという願いである。

·「谷神」:こくしん
→これは案としてはどうかな?という感じだが、個人的には非常に好きな言葉である。これも弘法大師の『性霊集』所収の「山中に何の楽しみかある」からの出典である。「澗水(かんすい)一杯、朝(あした)に命を支え、山霞一咽夕(ゆうべ)に神を谷(やしな)う」。「神を谷う」とは、精神をやしなう、あるいはこころをやしなうという意味であるが、時代が変わっても、常にわたしたちはこころをやしなっていかなければならないなあと思うのである。

さて、いくつか案を考えてきたが、今回私は日本の文献に多く拠ったつもりである。「平成」は先のブログでも書いたように、『書経』と『史記』から取ったということだが、我が国の元号を決めるのだから、こんどは我が国の先人たちが残してきた文献から取ってみようと考えたのである(空海さんの文章からの出典が多いが、彼の文章や言葉がとても美しいことを改めて理解したのであった)。

さあさあ、新元号の発表はついに今日になってしまった!!
(よかった、この記事間に合った。。。)
新たな元号はどんなものになるのだろうか。
そして、次はどんな時代になるのだろうか。

“わたしの新元号”

今上天皇が退位され、皇太子さまが新たな天皇に即位されるまであと1ヶ月あまりとなった。これに伴って改元が行われるが、新たな元号の発表が近づいている。

64年間続いた昭和という時代は、高度経済成長というめざましい発展の時代でもあったが、同時に戦争、そして敗戦という激しい経験をした時代でもあり、昭和を生き抜いてきた人々は、次に来る新たな時代は、戦争がなく国家という大きな怪物にわたしたち市民の命が脅かされることのない、文字通り平和な時代になって欲しいと強く望んだに違いない。かくいう私も昭和50年代半ばの生まれだから昭和を生きてきた一人だが、昭和から平成に代わった当時は小学生だったから、毎晩、NHKニュース7の冒頭と終わりに報道される「天皇陛下のご容態」と大喪の礼、そして当時の小渕官房長官による「平成」の発表など一連の動きに、大きな時代の変動を肌で感じていながら、昭和の先人たちの強い願いまでは、よくわからなかったというのが正直なところである。大人になってぼつぼつとわかってきたけれど。

そんなたくさんの願いを込めてスタートした「平成」も30年の時を経て、今年、幕を下ろすことになる。
「平成」とは、『書経』にある「地平天成」と『史記』にある「内平外成」から取られたというが、いま思えば、まさに当時の人々の強い願いが聴こえてくるようである。

元号とは何であろうか。
私は元号とは、新たな時代に生き、その時代を創っていく人々の希望であり、願いであり、祈りのかたちであると感じている。そうであれば、新元号が発表される前の今の時期に、新たな時代を望んで、あるいは当てっこのようにして(果たして当たるかどうかわからないけれど)大きな視野で新元号を考えるのも面白いだろうし、あるいはまたひとりひとりが新たな時代への願いや祈りを託して「わたしの新元号」を考えるのも面白い試みだろうと思っている。

わたしもいくつか考えていて、ぼそぼそと呟いていこうと思っている。

あなたはどんな新元号案を考えるだろうか。

*去りゆく平成への回顧というか、振り返りは、4月になってから書こうと思っている。

Live review:ティグラン·ハマシアン ライヴ

アルメニアのジャズピアニスト、ティグラン·ハマシアンのライヴに行ってきた。

私は実はティグランのことはよく知らなかったのだけれど、数日前の日曜日に、ラジオ番組Barakan Beatにゲスト出演していて(東京ジャズに出演していたようだ)、インタビューが面白かったし、今後各地を回るライヴをやるというので、んなら行ってみよう!!ということで足を運んだのだった。

会場はそれほど大きくないホールで、2,3日前にチケットを買って比較的後ろに座った私だったが、彼の紡ぐ音にまったく圧倒されたのであった。「音に圧倒される」。まさにそんな表現がぴったりくる「凄い」演奏で、演奏中は身動きができないほど、迫り来る音たちに心酔していた。そんな迫りくる音楽ではあるのだが、彼の音たちは実に温かいのだ。この衝撃は、私が大学生の頃、ロバート·ラウシェンバーグの『モノグラム』に出会った時のそれと似ているかもしれない。

プログラムは、ピアノソロあり、電子ループとピアノのコラボあり、口笛あり、ハミングあり、能管奏者をゲストに招いてコラボありなどなどバリエーション豊かにまとめられていた。特に能管とのコラボは、能管の響きが時にそよ風のように、時に地響きのように、また時に稲妻のように響き、ティグランのピアノが優しく、時に激しく掛け合っていて、その様子は、霧雨にけぶる山を遥かに見る大草原にいる心地がしたのであった。

ティグラン·ハマシアンの演奏は、映像的だと思った。
彼の曲を聴いていると映像が浮かんでくるのである。しかも広大な映像。川がゴポゴポと音を立てて流れ、目を横に逸らすと広い野原は広がっているような、そんな映像だ。アルメニアの景色なのか、はたまた行ったことのない異国の景色なのか。

ライヴのあとはリアルに放心状態で、音が身体の中に入り切らなくて、皮膚の上に溢れているのがわかった。

ティグラン·ハマシアン、素敵なアーティストだ。

私は彼のCDを1枚買って、その後何をどうやって家まで帰ったか、よく覚えていない(放心状態だったから:)  )。

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読書感想文·代行業!?

お盆が終わり、8月も後半である。

世の中の子どもたちは夏休み真っ盛りで、朝夕の通勤電車は賑やかな声で包まれている。“ねずみ園”の大きな袋を大事に抱える子らも多く見かける(おじさんとかもいるけど)。地方に帰省したり、遊園地に行ったり、おじいちゃんおばあちゃんにお小遣いをもらったり、お墓参りをしたり、親族が集まったり、楽しい時間を過ごしている子どもたちも多いだろう。

だが、そんな楽しい夏休みも残り半月弱を残すのみである。

8月も後半になってくると、まるで牡丹燈籠のお菊のように、すーっと音もなく井戸の中から現れてくるのは、夏休みの宿題である。

昼下がりの気だるい暑さと肌を流れるクーラーの冷風、汗をかいた麦茶のグラスと、壊れた時計のアラームのように調子の外れた蝉の声を聞きながら、私も小中学生時代は、憂鬱な夏の終わりを過ごしたものだ。特にこの憂鬱さに拍車をかけたのは、作文であった。

殊に、読書感想文。あれである。
本を読んで感じたことを書きましょう。あれである。
読書感想文は多くの場合、学校の先生たちが提出されたものを読んで、優秀だと思われた作品はコンクールに応募される。
そのコンクール。「青少年読書感想文全国コンクール」によれば、読書感想文を書く趣旨は「子どもや若者が本に親しむ機会をつくり、読書の楽しさ、すばらしさを体験させ、読書の習慣化を図る。」「より深く読書し、読書の感動を文章に表現することをとおして、豊かな人間性や考える力を育む。更に、自分の考えを正しい日本語で表現する力を養う。」ということのようだ。読書感想文の宿題はいまもまだ行われているみたいだ。

ところが!なんと!
昨今では読書感想文の代行業があるという(私は去年だったか一昨年だったかに知った)。しかも、最近では案外多くの利用があるというのだ。上記のように「読書の感動を文章に表現することをとおして、豊かな人間性や考える力を育む。」という考え方に基づいて読書感想文が課されているのだとすれば、賛否両論、侃々諤々の議論が飛び交うのも頷けるが、しかし読書感想文の代行業なんて、ちょっと面白そうな仕事ではないか!

よっしゃ、いっちょやってみようか!!

★読書感想文代行 概要★
【お値段】1文字50円。
→1文字50円だと400字詰原稿用紙1枚に付き20,000円。読書感想文はだいたい5枚以内だから、1本につき100,000円。

【対象】小中学生
【納期】1週間~2週間くらい。繁忙度による。
【課題本】以下の5冊のうちから、1冊お選び下さい。学校指定の課題図書や、お客様の書籍指定による執筆は応じかねます。なお、小学校低学年向の書籍を中学生がお選びいただくことも可能です。

(*以下著者等の敬称は略)
Aコース [小学生向] 空海『声字実相義』
Bコース [小学生向] ジャン·ボードリヤール『消費社会の神話と構造』
Cコース [小学生向] 山折哲雄·森岡正博『救いとはなにか』
Dコース [小学生向] オルテガ·イ·ガセット『大衆の反逆』
Eコース [中学生向] 浄土三部経より『観無量寿経』(中村元ほか註·岩波文庫刊)
Fコース   [中学生向] E.サイード『知識人とは何か』
Gコース  [中学生向] みうらじゅん『いやげもの』

こんな感じだろうか。

お値段がちょっと高いという声が上がりそうだ。
確かに、世に出回っている、読書感想文代行業の相場をみると、料金は原稿用紙5枚で、だいたい14,000円~25,000円程度のようである(1文字換算では7円~12.5円くらい)。しかし、考えてみれば本来、自分で本を読んで原稿用紙と格闘すべきところを、金で買うのだから、100,000円は安い買い物である。

***

こんな条件では、当然のことながら、依頼など来ないだろう(笑)。
まあ、仮に依頼が来たとしても、私は書かない。
提出点稼ぎのために代行業に頼んだとしても、読む者(たとえば教師とか)には本人が書いているかなんてわかる筈だし、代行業に頼んだ読書感想文を出したって、そんなものは出さない場合の点数とさして変わらないだろう。

そんなことを考えているうち、高校のときの恩師である家庭科の先生を思い出した。
私の高校では、夏休みになると「ホームプロジェクト」という家庭科の課題が出されたのである。進学校だったこともあり、周囲からは「受験勉強の時間を削ってそんなことをする必要があるのか!?」など批判も多かったようだ。しかし、その先生は、きっぱりと「家庭科は受験科目ではありません。生きていくための科目です。」と仰って、ホームプロジェクトは毎年夏休みの課題一覧の中にあった。ホームプロジェクトのおかげか否か、私は身の回りのことは一通りできるようになった。
読書も同様だろうと思う。
読書感想文は、ニンゲンが思考しながら生きていくための面白い宿題である。今では私はそう思っている。

かつて寺山修司の『新·書を捨てよ,町へ出よう』の解説で橋本治氏は「この書を持ちて、その町を捨てよ」と書いたけれど、まさに理性のみではない、肉体(ここには感情など体まるごと含まれよう)を刺激する書を持って、町へ出よう!! そう呼びかけよう。
どんな本でもよいだろう。あれやこれや全身で考えて、そのまま原稿用紙に書きなぐれば読書感想文などすぐに書き上がるものだ。

***

別に本なんて読んだって読まなくったって自由である。
けれど、一ついえると思うのは、本の中にはほんとうに深く心に迫るものたちが隠れているということだ。私たちに深い思索と示唆を与え、人生をたしかに豊かにしてくれているものたちが潜んでいるということだ。

多感な時期のひとたちが、読書感想文のためのみではなく、思考しながら、ときには遅疑逡巡しながら生きていくために、そういうものたちに出会っていくことを願ってやまない。

雲堂再開。

先日ブログで書いた、座禅アプリ「雲堂」がrestartしていたのである!
いまごろ気づいたのである!

進化するにつれ0に近づくという話にもあったように、警策機能は無くなり、twitter連携もなくなりシンプルになった。残っている機能は必要にして十分であるように思う。

強いて言えば、全世界で「雲堂」を使って座禅している人の累計も取ってしまってもいいのかもしれない。わたし自身の累計(回数・時間)があれば。
座禅を通じてわたしがどのような時間を過ごしたかを、少しだけ振り返ることができれば、それで十分であるように思うのだ。

一日を終えて自分の中心にもどるとき、
再びこのアプリがお供をしてくれることは、喜びである。

「雲堂」が再始動するんだって。~ゼロに戻るということ~

久しぶりのブログ更新。
2月である。と思っていたら、3月になっちゃった。まだまだ寒い日があるけれど、私は2月から3月はじめ、肌寒いこの早春が好きだ。光はまだ頼りなく、風も冷たいけれど、しかしたしかに、それらに春が薫っている。植物も来るべき春への支度を始めている。生命の息吹を感じる大好きなひとときだ。

さて、座禅アプリ「雲堂」が再始動するのだそうだ。
私はつい先日、下に貼付したyoutubeを見つけたのだが、アップロードされた日からすると、もう半年程前に発表になっていたようである。

「雲堂」(うんどう)という名前を初めて聞く方もあるかもしれないが、この「雲堂」は、2010年に、超宗派のお坊さんたちで作るネット寺院「彼岸寺」発のスマホアプリとしてリリースされた。
簡単に言ってしまえば、座禅タイマーである。
だが、単にタイマーというに留まらない、いろいろなアイデア、機能が詰まっていた。初めての人でも気軽に座れるように、座り方や呼吸の仕方のガイダンスがあったり、禅堂で僧侶にバシッと打たれる警策を疑似体験できる機能があったり、時間が経つにつれゆらめくお線香が短くなっていくフラッシュがあったり、ガイダンス動画を見ることができたり、はたまたtwitter連携していたり。
よくできた、“楽しい”エクササイズアプリだったのである。

しかし、iOSが10から11になったとき、更新がストップしてしまい、現在のiphoneでは使えなくなってしまった。好きなアプリであったし、私は、一日を終えた真夜中2時とか3時とかに、自分の中心に戻るべく人知れず座っていたから、使えなくなってしまってからは非常に残念な思いで現在に至っている。

そんな「雲堂」が近々再始動するらしいのである。うわお。 早くリリースされないかな♪と首を長くしている昨今。

さて、そんな再始動を教えてくれたこの動画だが、対談の中で興味深いことを語っている。徐々にアップデートならぬダウンデートを行い、ゆくゆくは「バージョン0.0、ユーザ0」にしたいという話が出てくるところである。
進歩することは良いことだという暗黙の時代の大波の中で、意識的に機能を削ぎ落としてエッセンスのみを残していく。そしていつしか、アプリそのものをも削ぎ落として「雲堂」が無くなっても、流れ行く社会の濁流の中で、皆が僅かな時間にでも静かな時間を持つことが習慣となり、いつでも本来の自分に戻る、まさに“undo”とともにある時代を求めるのは共感できるところである。その意味においては、ダウンデートは消極的な行為ではなく、むしろ積極的な行為なのだろう。進化する「雲堂」というか。

“undo”、“削ぎ落とす”ということを考えているうち、いつしか私は能楽を想起した。
能楽は、まさに有象無象のものを悉く削ぎ落とし(しかも積極的に)、エッセンスだけになってしまった芸術である。
舞台装置という点でも能は徹底している。ご存知のように、能舞台には歌舞伎や新劇のように緞帳というものが無い。見物は、最初何も無い舞台を見ながら開演を待ち、次第にどこからともなく聞こえるお調べと登場人物たちが織りなす物語に心奪われ、ときに興奮し、そして後シテの神々や霊たちが一瞬の華を見せたのちにそれぞれの場所に還っていく姿を見送って、再び私はひとり何もない舞台に戻ってくる。私はわたしの静寂な場所に戻ってくるのである。
この夢か現か判然としない夢幻の世界から、何も無い空間にひとりいる、わたしに戻ってくる感覚は、座蒲に座って目覚めたときの感覚と似ている気がする。
(ゼロに戻るという点は、もう少し思索する必要があるような気がしている。)

「雲堂」が再び利用できるようになることを待ち望んでいる。

ことしもおわり。2017。

平成29年も終わりである。
今上陛下も再来年退位されるというから、平成そのものもそろそろ終わりである。

さて、そんな平成29年。
今月清水寺で発表された今年の漢字は、「北」だそうだ。

私の1年は、と考えて出てきた漢字は、
「伸」。

1.先日、年に一度の健康診断で、身長が1cm伸びていたから「伸」。
2.昨年のベートヴェン『第九』引き続いて、今年は更に先へ伸ばして、モーツァルト『レクイエム』を歌おうと試みたから「伸」。
(モツレクは、モーツァルトの命日にウィーン。シュテファン大聖堂で歌いたかったけれど、結局、諸々の諸事情により断念してしまった。)
3.会社で私がリーダーをさせて頂いている部署の、今年の業績が飛躍的に伸びたから「伸」。
4.今年、切っても切っても髪の毛がどんどん伸びたから「伸」。
5.先程食べていた年越しそばが少し伸びていたから「伸」。

こうして考えてみると、今年はいろいろな意味で伸びた一年だった。

来年はどんな一年になるだろう。
大きく飛躍する、よい一年になる予感がする。

ことしもおわり。
また来年!!

ことしもおわり。

夕暮れて、
夜もだんだん更けてゆき、
今年もだんだん更けてゆく。

平成28年も、もうじきおわり。

今年も変化に富んだ一年だったな。
別れはほとんどなかった記憶だけど、
新たなる出会いがあったり、
一歩を踏み出す経験があったり、
世代を超えて歌をうたったり、
ン十年ぶりの再会があったり。

一年のおわりに熱い珈琲と深呼吸をして、
ちょっとひといき。

さて、今年が終わると休みなくやってくる来年だが、
平成29年は今年以上に、もっともっと変化に富んだ
豊穣な一年になるだろう。

そんな気がしている。

2017年が国内でも世界の各々の地域においても、
身近なみなさんにとっても、
穏やかで光あふれる一年になりますように。

お。来年の足音が聞こえてきたようだ。
聞こえるでしょ。
みなさん、よいお年を。

第九をうたう

今年は、6月頃からベートヴェンの「第九」を歌っている。

第九を歌う市民合唱団に入って、舞台に立つのは中学生以来だ。
あの頃はドイツ語もよくわからなかったし、テノールパートといっても音がかなり高く、変声期の少年にはなかなか苦しかったものだ。ただ歌を歌いたい、第九を歌ってみたいという好奇心にまかせて歌っていたが、舞台に立った時の昂揚感は、いまでも鮮明に憶えている。

あれから20年余り経って、今年の春頃、「そうだ、第九歌おう!」とばかりに思いたち、いくつかの合唱団をサイトで見て、あまりいろいろ調査せずに、ある市民合唱団に飛び込んだ。

初回の練習会に行ってみると、男声参加者は人生の先輩方ばかりで(平均年齢は70歳を超えているかもしれない)、私と同年代、あるいはそれ以下の人は皆目見当たらず、私がおそらく男声最年少だろうという状況で、正直なところ、果たして最後まで練習に参加できるだろうか??と不安を感じなかったわけではなかった。それでもなんとかかんとか、明日(というかもう今日だ!)、本番というところまで来た。

まあ確かに、私は自分が若輩者ゆえ、周囲からなんだか浮いている感じがしているけれど、それでも、歌を歌えるのは楽しいし、いつも練習が終わると、自分自身が蘇る感じがして心地良かった。この心地よさのために毎週毎週(シュウマイ、シュウマイではない)、通っていた気がする。

 

さて、今回歌うのは、ベートヴェンの交響曲第9番。
ベートヴェンと聞くと、昔、小学校の音楽室に掛かっていた、こんな絵を思い出したり、

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♪ジャジャジャジャーン♪という第五交響曲(いわゆる「運命」交響曲)の冒頭を思い出したりして、重く、暗い、悲愴的な作曲家だという印象があるかもしれない。

けれども、第九を歌いながら、あるいは彼の残した他の交響曲や他の作品をいろいろ聴きながら、はたまた彼に関するいくつかの著作を読んで思うのは、彼ってアツい奴で、実はとても根が明るいんじゃないか、ということだ。確かに、ベートヴェンは年をとるにつれて、ひどい難聴になったと言われているし(諸説あるが)、生活も苦難がいろいろと押し寄せてきて、決して安定したものとはいえなかったようだが、そんな中にあっても彼の精神は明るく、力強く前進するエネルギッシュな魂であったに違いないと私は思っている。その精神の迫力には、強く惹きつけられる魅力がある。

彼は、友人ヴェーゲラーに宛てた手紙の中で、こう記している。

「おお、この病気(註:難聴か)から解放されて僕は世界を抱き緊めたい!(中略)僕は運命の喉元を締めつけてやりたい。どんなことがあっても運命に打ち負かされきりになってはやらない。―おお、生命を千倍生きることはまったくすばらしい!ー寂しい生活、ー否、確かに僕は寂しく生きる性分ではない。」

また他のところでは、次のように残している。
“Durch Leiden Freude”(悩みを突き抜けて歓喜に到れ!)
(以上、出典:ロマン・ロラン『ベートヴェンの生涯』(岩波文庫))

いろいろとモゾモゾ書いてみたが、今日がコンサート本番である(え?もう?)。
ベートヴェンが世界に向かって叫んだように、私も世界に向かって、そう、ほんとうに、全世界に向かって、“alle Menschen”に届くように歌い上げたいと思っている。

Freude!!!とね。

ぐるぐるしながら ―しりあがり寿氏『回転展』―

先日まで、県内の美術館で開催していた、しりあがり寿さんの「回転展」を観に行った記録である。

***

ずっと観たい観たいとは思いながら、なかなか行けないなー。いつ行こういつ行こうかなーと思っていて、日にちが過ぎていた。ある午後、なんとなくウェブを見ていたら、その日はなーんと夜間開館で20:00まで美術館が開いていた!!

もうじき会期が終わってしまう!!これは行かぬテはなかろうと、即断即決で行くことに決めて家を飛び出した。

***

さて。
前情報ではいろんなものが回っているよーと聴いてはいたが、実はわたくし、あまりしりあがりさんの作品ってよく存じ上げなかったので、イマイチイメージが掴めなかった。

しかし、会場に入って、漫画の原画などに圧倒されて、2階の展示室に入った途端、いろんなものが、たしかに、そう、確かに、回転していたのである。ぐるぐる。ぐるぐる。

回転している間だけが芸術というヤカンのまわりをぐるぐるしながら、やかんが回転しているのか、はたまたわたしが回転しているのかわからなくなるという、やや倒錯的な状況に陥ってみたり、身近な日常品たちがぐるぐるしている白い部屋の真ん中で、ひとりぐるぐるしているうちに、わたしも小物たちの一部に同化していくようなトランスな感覚になったりして、なんだか哲学的な気分になってきてひとり楽しくなってきたのである。

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考えてみれば、私たちの地球もぐるぐるしているから、風が吹いたり、四季の変化が起こったり、社会が動いたりしている。地球が自転をやめ、公転をやめてしまったら、私たちは生きていけないのかどうかはわからないけれど(小学生の頃、「地球が止まったら、おれたち死ぬねんぞ―」などと言っていた記憶があるんだけど。)、少なくとも、現在のような環境ではいられないのだろう。もっとも地球が自転しなかったら、昼夜はなくなるよね。日本もずっと昼間か、ずっと夜になっちゃうね。そうだとすると、ぐるぐるするということは、私たちにとって根源的に重要な営みだということになりそうである。したがって、血液氏がわたしたちの体の中をぐるぐるしてくれているから、私たちが生きていられるなどということを敢えて出すまでもなく、お抹茶の横で羊羹がぐるぐるするのも、えびふりゃーがぐるぐるするのも、床の間の軸がぐるぐるするのも、宇宙にとって重要な営みなのだろう。

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スライドショーには JavaScript が必要です。

 

そんなことを考えながら、へえ、“いもかわうどん”なんて初めて聞いたななどと思いながら障子漫画を見ていたら、はーい!閉館ー!!という時間になったので、歩いても歩いても距離の変わらぬ透き通った三日月と一緒に、夜寒の風に吹かれて(blowin’ in the wind)駅へと足を早めたのであった。

この展覧会、このあとどこかに巡回するとのこと。もう一回見に行こうかな♪

*回転する羊羹の動画はこのブログに付けられないようなので(無料版では動画が付けられないっぽい)、twitterか何かに載せることにしましょうか。