ことしもおわり。

夕暮れて、
夜もだんだん更けてゆき、
今年もだんだん更けてゆく。

平成28年も、もうじきおわり。

今年も変化に富んだ一年だったな。
別れはほとんどなかった記憶だけど、
新たなる出会いがあったり、
一歩を踏み出す経験があったり、
世代を超えて歌をうたったり、
ン十年ぶりの再会があったり。

一年のおわりに熱い珈琲と深呼吸をして、
ちょっとひといき。

さて、今年が終わると休みなくやってくる来年だが、
平成29年は今年以上に、もっともっと変化に富んだ
豊穣な一年になるだろう。

そんな気がしている。

2017年が国内でも世界の各々の地域においても、
身近なみなさんにとっても、
穏やかで光あふれる一年になりますように。

お。来年の足音が聞こえてきたようだ。
聞こえるでしょ。
みなさん、よいお年を。

第九をうたう

今年は、6月頃からベートヴェンの「第九」を歌っている。

第九を歌う市民合唱団に入って、舞台に立つのは中学生以来だ。
あの頃はドイツ語もよくわからなかったし、テノールパートといっても音がかなり高く、変声期の少年にはなかなか苦しかったものだ。ただ歌を歌いたい、第九を歌ってみたいという好奇心にまかせて歌っていたが、舞台に立った時の昂揚感は、いまでも鮮明に憶えている。

あれから20年余り経って、今年の春頃、「そうだ、第九歌おう!」とばかりに思いたち、いくつかの合唱団をサイトで見て、あまりいろいろ調査せずに、ある市民合唱団に飛び込んだ。

初回の練習会に行ってみると、男声参加者は人生の先輩方ばかりで(平均年齢は70歳を超えているかもしれない)、私と同年代、あるいはそれ以下の人は皆目見当たらず、私がおそらく男声最年少だろうという状況で、正直なところ、果たして最後まで練習に参加できるだろうか??と不安を感じなかったわけではなかった。それでもなんとかかんとか、明日(というかもう今日だ!)、本番というところまで来た。

まあ確かに、私は自分が若輩者ゆえ、周囲からなんだか浮いている感じがしているけれど、それでも、歌を歌えるのは楽しいし、いつも練習が終わると、自分自身が蘇る感じがして心地良かった。この心地よさのために毎週毎週(シュウマイ、シュウマイではない)、通っていた気がする。

 

さて、今回歌うのは、ベートヴェンの交響曲第9番。
ベートヴェンと聞くと、昔、小学校の音楽室に掛かっていた、こんな絵を思い出したり、

p2240463

♪ジャジャジャジャーン♪という第五交響曲(いわゆる「運命」交響曲)の冒頭を思い出したりして、重く、暗い、悲愴的な作曲家だという印象があるかもしれない。

けれども、第九を歌いながら、あるいは彼の残した他の交響曲や他の作品をいろいろ聴きながら、はたまた彼に関するいくつかの著作を読んで思うのは、彼ってアツい奴で、実はとても根が明るいんじゃないか、ということだ。確かに、ベートヴェンは年をとるにつれて、ひどい難聴になったと言われているし(諸説あるが)、生活も苦難がいろいろと押し寄せてきて、決して安定したものとはいえなかったようだが、そんな中にあっても彼の精神は明るく、力強く前進するエネルギッシュな魂であったに違いないと私は思っている。その精神の迫力には、強く惹きつけられる魅力がある。

彼は、友人ヴェーゲラーに宛てた手紙の中で、こう記している。

「おお、この病気(註:難聴か)から解放されて僕は世界を抱き緊めたい!(中略)僕は運命の喉元を締めつけてやりたい。どんなことがあっても運命に打ち負かされきりになってはやらない。―おお、生命を千倍生きることはまったくすばらしい!ー寂しい生活、ー否、確かに僕は寂しく生きる性分ではない。」

また他のところでは、次のように残している。
“Durch Leiden Freude”(悩みを突き抜けて歓喜に到れ!)
(以上、出典:ロマン・ロラン『ベートヴェンの生涯』(岩波文庫))

いろいろとモゾモゾ書いてみたが、今日がコンサート本番である(え?もう?)。
ベートヴェンが世界に向かって叫んだように、私も世界に向かって、そう、ほんとうに、全世界に向かって、“alle Menschen”に届くように歌い上げたいと思っている。

Freude!!!とね。

ぐるぐるしながら ―しりあがり寿氏『回転展』―

先日まで、県内の美術館で開催していた、しりあがり寿さんの「回転展」を観に行った記録である。

***

ずっと観たい観たいとは思いながら、なかなか行けないなー。いつ行こういつ行こうかなーと思っていて、日にちが過ぎていた。ある午後、なんとなくウェブを見ていたら、その日はなーんと夜間開館で20:00まで美術館が開いていた!!

もうじき会期が終わってしまう!!これは行かぬテはなかろうと、即断即決で行くことに決めて家を飛び出した。

***

さて。
前情報ではいろんなものが回っているよーと聴いてはいたが、実はわたくし、あまりしりあがりさんの作品ってよく存じ上げなかったので、イマイチイメージが掴めなかった。

しかし、会場に入って、漫画の原画などに圧倒されて、2階の展示室に入った途端、いろんなものが、たしかに、そう、確かに、回転していたのである。ぐるぐる。ぐるぐる。

回転している間だけが芸術というヤカンのまわりをぐるぐるしながら、やかんが回転しているのか、はたまたわたしが回転しているのかわからなくなるという、やや倒錯的な状況に陥ってみたり、身近な日常品たちがぐるぐるしている白い部屋の真ん中で、ひとりぐるぐるしているうちに、わたしも小物たちの一部に同化していくようなトランスな感覚になったりして、なんだか哲学的な気分になってきてひとり楽しくなってきたのである。

img_1876

考えてみれば、私たちの地球もぐるぐるしているから、風が吹いたり、四季の変化が起こったり、社会が動いたりしている。地球が自転をやめ、公転をやめてしまったら、私たちは生きていけないのかどうかはわからないけれど(小学生の頃、「地球が止まったら、おれたち死ぬねんぞ―」などと言っていた記憶があるんだけど。)、少なくとも、現在のような環境ではいられないのだろう。もっとも地球が自転しなかったら、昼夜はなくなるよね。日本もずっと昼間か、ずっと夜になっちゃうね。そうだとすると、ぐるぐるするということは、私たちにとって根源的に重要な営みだということになりそうである。したがって、血液氏がわたしたちの体の中をぐるぐるしてくれているから、私たちが生きていられるなどということを敢えて出すまでもなく、お抹茶の横で羊羹がぐるぐるするのも、えびふりゃーがぐるぐるするのも、床の間の軸がぐるぐるするのも、宇宙にとって重要な営みなのだろう。

img_1880

スライドショーには JavaScript が必要です。

 

そんなことを考えながら、へえ、“いもかわうどん”なんて初めて聞いたななどと思いながら障子漫画を見ていたら、はーい!閉館ー!!という時間になったので、歩いても歩いても距離の変わらぬ透き通った三日月と一緒に、夜寒の風に吹かれて(blowin’ in the wind)駅へと足を早めたのであった。

この展覧会、このあとどこかに巡回するとのこと。もう一回見に行こうかな♪

*回転する羊羹の動画はこのブログに付けられないようなので(無料版では動画が付けられないっぽい)、twitterか何かに載せることにしましょうか。

『追憶のほんやら洞』

帰りがけ、本屋をふらふらしていたら、
『追憶のほんやら洞』という本に目が留まった。

「ほんやら洞」という懐かしい響きを反芻した途端、
わたしは今出川通の歩道に立つ自らの姿を認めた。

正直なところ、大学の近くにあった「ほんやら洞」へは、2回だったか、せいぜい片手で数えられるほどしか行ったことはない。なんだかうす暗くてこちゃこちゃっとした、それでいて味のあるお店だった。数十年も遡れば、そこここの学生たちが集まり、紫煙をくゆらせ、ギターを掻き鳴らし、やれマルクスだ!やれマックス・ウェーバーだ!、やれ『資本論』だ!やれ『プロ倫』だ!と盛んにやっていたであろうことが想像された。
店の前を自転車で通り過ぎると、どこからともなくカレーの香りがしてきたものだ。

そんな「ほんやら洞」が火事で燃えている!と聞いたのは、確か昨年2015年1月のことだったろうか。時のたつのは早いもので、既に1年半ほどが過ぎ去ろうとしている。

火災のニュースを聞いた時は、驚いたし、とても残念だった。
それは、懐かしい記憶の断片が失われてゆくことの無念さ、ん…もう少し言えば、喪失感によるものかもしれない。

そんなことをあれこれ思い巡らしているうち、
ふと気が付くと、私は先ほどの書店の本棚の前に立っていた。
わたしは、しずかに本を手に取り、表紙をひらいた。

IMG_1776

ボッサブックスの閉店

熱いコーヒーを淹れようと、お湯を沸かしている間に、ひさびさにブログを書いてみる。

さて。
先日、読んだ本の整理なんかをしようとPCをもさもさといじっていたら、ボッサブックスが消えていたのである!!

ボッサブックスは、ブクログや読書メーターなどのように、書籍についてのウェブサービスである。ブクログなどほど、SNS度は高くなく、あくまで読んだ本や興味のある本、DVDなどをバーチャルな本棚に追加し、まとめていくというサービスである。そして、公開の本棚がブログパーツにも繋がっており、ブログやホームページの横に、ちこっとつけることができた。

このシンプルで、デザイン性にも優れたサービスが昨年9月末をもって終了していたのだ。
読書好きとガンガン繋がろうとか、読書量を記録しようみたいな、ガツガツ感が全然なく、おしゃれなバーチャル書店にほっておかれる感じが好きだった。その「放っておかれ感」は現実の本屋さんにも近いもので心地良かった。実際に、ボッサブックスのサイトは、書店のようになっていて、各階に各ジャンルが配置されているような作りになっていた。カフェもあって、そこでは本好きが各々本について語り合っていた。

こんな自由な空間だったから、私は興味のある本も含めて、相当数のナンバーを本棚に収めていたが、それらデータも全て消えてしまったようだ。

閉店が、昨年の9月30日。
その直前には、蔵書データーをバックアップにとることもできたようであるが、半年以上も経った今頃閉店に気づいた私は、その機会も逸した(去年、メールでのお知らせなんて来てたかなあ。見逃したなあ。)。

閉店の理由は、いくつかのブログを拝見すると、経営の困難だったということらしい。確かに、昨年の夏頃に本棚を整理した時は、システムの手入れが進んでいないような感じがしていた。
素敵で使いやすいサイトだっただけに、とても残念である。暫くブランクを経てもいいから、また再開してくれればいいなと思っている。

ブックスといえば、
リアルな書店も経営が難しくなっていると言われて久しい。
リアルな本屋さんのことは、また機会を改めて書くことにしよう。

お、そろそろお湯が湧いてきたようだ。

あけまして。さて、

2015年が明けました。ぱかっ。
皆様あけましておめでとうございます。
昨年は拙ブログへの多くのアクセスを頂きありがとうございました。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
長らくこのブログも投稿できずに月日ばかりが流れ、いよいよ閑古鳥もどこかに飛び去ったか?と思っていたところ、年まで明けてしまいました。

家のしつらえやお正月のお料理なんかからも、おお、お正月だなとは思ったのですが、新春の能を観て改めて、おお、やっぱりお正月だと思ったのでありました。

さて、古来、一年の計を元旦に立てるといいますが、私も元旦にいくつか計を立てました。
そのうちの一つが、このブログをもう少し頻繁に更新してみようかということ。「更新するぞ!」とか「更新します!」という決意に満ちたものではなく、「してみようか」という聊か軟弱左衛門なところがすでに心配なところではありますが、このくらいの緩やかな意思で今年もぼつりぼつりと続けていこうかと考えております。

この一年をどんな年にしようかと計を練ることも面白いのですが、今年はどんな年になるか?と占うのもまた面白いもの。私は年頭にアニマルカードを引いたところ、大きなブレイクスルーのための準備をせよ、と出てきました。
さてさて面白くなってまいりましたぜ!!今年はどんな一年になるでしょうか。

とざい とーーざーーい!!

ダライ・ラマ法王による胎蔵界灌頂へ

 

春である。久しぶりのブログ更新である。

今回は、先日受けたダライ・ラマ14世法王による胎蔵界灌頂のおはなし。

 

**

 
先日、高野山大学で開壇された、ダライ・ラマ14世法王によるチベット密教の胎蔵界灌頂に参加させて頂いた。私は2年ほど前の金剛界灌頂の時も参加の機会に恵まれたので、これでチベット密教の金胎両部の灌頂を法王さまから直接頂いたことになる。

 

今回私は日程の都合上、2日目の早朝に高野山に上って灌頂を受け、その日のうちに帰途につくという、強行スケジュールになったが、灌頂儀式の方も、1日ですべてを終えるというなかなかに密度の濃いというか、内容の濃いプログラムであった。しかも、事前に通知されていた予定変更では、朝から灌頂となっていたところ、会場に入ってみるとさらに変更があり、まずは前日の法話の続きから!ということで、幸いにも法王様の法話もお聴きすることができたのだった。いぇい!♪聞くところによれば前日の法話も、予定より早く始まって、かなり延長なさったというから、法王様の心意気たるや相当なものである。うお、法王様、やる気まんまんー。

 

さて、灌頂の儀式というのは、とても複雑な手順を踏むものであると聴く。私がこれまで数度受けたことのある日本での結縁灌頂でも、私たち受者が参加するいわばクライマックスの部分は一部分であって、そこに至るまでには様々な作法や儀式が行われているという。今回受けたチベット式の灌頂も例外ではなく、多くの儀式・作法によって成り立っているようで、そのゆえなのか、チベットにおいても、こうした胎蔵界や金剛界の灌頂はめったに開壇されないと聞いた。そうであるならば、今回私は極めて貴重な歴史的な機会に立ち会うことができたということがいえるかもしれない(ちょっと大袈裟?—あぁ、大袈裟って大きな袈裟って書くね。いま気付いたよ。仏教用語??)。

 

今回の灌頂は、日程的に確かに過密だと感じた。だがそんな中にあっても、法王様は一つ一つの作法を実に丁寧に修され、時にほっほっと笑われるなどユーモアにあふれ、何よりひとつひとつに心を込めて私たちにお授け下さった。法王様のそのお心には感謝するばかりである。

 

今回、灌頂を通して体験したことや感じたことを心に留めながら、泥の中から透き通るような花びらを静かに広げる蓮華のような、そんな心持ちでこれからの生活をしようと思ったのである。

 
《付記》
今回も、金剛界のときと同様、砂曼荼羅が作られていた。あの精緻さといい、美しさといい、何度見ても、あれは本当にすばらしい「作品」である。この灌頂のために長い時間をかけ、気の遠くなるような細かな作業に尽力されたチベット僧の方々に敬意を表したい。