響きあうことば

 

前回の更新から、もう随分とブランクが空いてしまったが、気付いてみると既に2014年の声を聞いて1ヶ月が経っている。平成もはや26年目に突入したらしい。この期に及んで、あけまして!も些か変だけれどーいや、陰暦のお正月を迎えたので、それに合わせて敢えて、あけまして!もいいかもしれないー今年もまた、遅々として進まぬ本ブログの更新をちょこっとずつやっていこうと思っている。気長におつきあい頂ければ、幸いである。今年もどうぞ宜しくお願い致します。

 

***

 

さて。

 

私たちは大きな流れに押し流されながら生きている。

 

最近そんなことを考えている。

1年、1ヶ月、1週間・・・という時間は最近特に早く、あっという間に時が流れてゆくと感じることしばしばで、「時」の流れに押し流されるということも感じるが、同時に流されている感の募るものが「情報」である。どっどどどどうど、どどうどどどう♪

 

「情報に流されてはいけない」とか「情報に支配されるのではなく、情報を選択・制御しよう」などといった言葉たちは既に使い古され、いわゆる「メディアリテラシー」という言葉なども耳に胼胝ができるほどに浸透した。しかしながら、そうした言葉を知っていても、あるいはいくらか意識的に情報を制御しようと試みても、広大なる海の中でなお押し流されている感が否めないというのは正直なところである。沖から寄せる荒波に揉まれ、剥がれかかりながらも辛うじて岩にしがみついているワカメのようなものである。

 

そんなワカメが、大量に、そして凄まじい速度で轟々と流れ去る情報の波に抗いながら、目の前を行き過ぐ、きらりと光る魚たちを記録しておこうと思ったのである。これは、ワカメの、ワカメのための記録であり、密かなる抵抗である。魚たちは主に、世界に溢れることばたちである。私が誰かとコーヒーの湯気の中で話しているとき、その誰かが語ったことば、セミナーなどに出た時に、そこで出てきたことば、テレビやラジオやインターネットで誰かが語ったことば、読んだ本の中で著者が語ったことば、映画の中の台詞、そして誰かが雑踏の中で呟いたひとりごと。

 

そんなことばたちを少しでもブックマークし、記録しておこうとtwitterで【響きあうことば】という連載を始めることにした。これまで私が気になっていくつかブックマークしたことばたちを考えると、出典も発話者も、まして時代も別々であるのに、あたかも通奏低音のように、現代を取り巻きながら響きあっている気がする。そんな感覚がこの題名にさせたように思う。

時、折しも新年であるし、新企画を始めるには良い頃である。

 

これを始めるにあたって、いくつかルールを考へた。

まったく不定期に、まったくきまぐれに更新すること、出典のあるものはできるだけそれを明らかにすること、特に日本語には限らないこと、などである。

 

まったくの思いつき企画であり、まったくキマグレンに始めてみることにする。だから、「唯、憤懣(ふんもん)の逸気を写せり。誰か他家(たか)の披覧を望まむ」(空海『三教指帰』序) ものである。

投稿などは私のtwitterにて。

 

と、こんなことを本当はtwitterで書きたかったのだけれど(ブログとtwitterで分離しちゃうと意味がよくわからなくなるからね)、ある程度の文章量にもなったし、およそ140文字では収まらないので、こちらに書くことにした。

さてこのひそかな試みはどうなるのであろうか。

 

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iOS7でアプリがフリーズしたときの対処法。

 

対処法シリーズである。

iOS6までのOSで、「iphoneアプリがフリーズしたときの対処法」については、既にこのブログでもご紹介した。ホームキーをダブルクリックして、マイナスマークを押すってやつね。詳しくは、以下のリンク先を見てね。

 

「iPhoneアプリがフリーズしたときの対処法。」

 

で、iOS7が先日リリースされて、お、なんかかわいいUIになってもーた!フォントがいいね!とかいいながら、うきうきで使っていたら、ガチーン!!

 

iOS7でもフリーズなさったのである。ouch!

 

私のiphone先生は、iphone4。

もう大概にご老体である。反応は鈍いし、ホームボタンも何度かしつこいくらいにチコチコやらないと利かないこともしばしば。しゅっと動くiphone5Sを横目に見ながら「いや、ipnone6まで待つんだ。iphone6になれば、形状そのもののチェンジもあるだろうから、もっとかっこいいのを手に入れるんだ!それまで我慢だ。」と言い聞かせる毎日である。

 

そうそう。で、iOS7がフリーズしたのである。すぐ話が脱線してゆく。。。ガタンゴトン…ガタンゴトン…

 

で、フリーズしたんだからと、以前のようにホームボタンをダブルクリックしたら、以前とは違う画面が出てきた。わお。

 

そして、相変わらずフリーズしたアプリのアイコンを長押ししてみたのだが、一向にブルブル、ガクガクブルブルしないのである。あれー?

 

で、いろいろやってみた。

できた。

結論は簡単。上にしゅっとやる。これである。

 

はい、ではまとめます。

 

 

【iOS7でアプリがフリーズしたときの対処法】

 

(1)ホームボタンをダブルクリックする

ホームボタンをダブルクリックすると、以下の画面が出て来る。

 

(2)フリーズを解消したいアプリの上にある画面表示を上にスワイプする

スワイプすると、フリーズしたアプリの画面表示(下でいえば、黄色で大きく囲った部分)がしゅっと上に抜けてくれる。これでフリーズ解消のようである。

 

ブログ写真

 

 

(3)ホームボタンを押して元の画面に戻してから、再度、アプリをタッチすると再起動する

 

 

これでOKである。

 

「痛いの痛いのとんでけー」と大げさに言いながら、大げさにスワイプすると以後、フリーズしにくくなると、先ほど こぶとりじいさん(小太りじいさんではない。二つこぶの方。)が言っていた(ほんまかいな)。

ま、それはともかく、このフリーズ解消から再起動するまでの方法、iOS6までよりもいくぶん簡単に(というか感覚的にできるように)なった。やはり、りんご社さんも、ゆーざびりてぃを考えてくれているのだろうか。

 

長々書いたけれど、案外簡単に再起動できるね!

 

めたしでめでたし。

 

 

 

 

試される。

 

うおーーー。毎度毎度だけれど、久しぶりの更新である。

最低でも月1の更新を、という努力目標は先月はまんまと破られたので、

今月はなんとか最低でも1回は更新してみようという所存である。

 

さて、本題に。

 

 

***

 

 

「試される」ということはあるのかもしれない。

先日体験した些細なできごとである。

 

その日は、あるお寺にお参りに出かけ、お勤めやご住職の説法をお聞きするなどして帰ってきた。お説法ではいろいろなお話がポンポンと出てきたが、その中で「日々生活する中で、人を妬んだり、恨んだり、愚痴を言うなどツマラナイコトをしないこと。それを今日から、いや今から実践しましょう。」というお話があった。

 

本堂で座って聴いているときは「なるほど、人を妬んだり、恨んだり、愚痴を言うということは良くないな。気をつけよう。」くらいに思っていて、自分はあんまりそういうことってしない方じゃないかな、なんて思っていた(他人から見たら案外愚痴っぽかったりして。うへへ)。

 

一連の次第が終わって、次の用事も控えていたため、私はお寺からタクシーを走らせて駅に向かった。タクシーの運転手さんはいい人だがよく喋る人で、そこの町ではもうじき大きなイベントがあるだの、その辺りは朝夕と昼間の気温差が大きいだの、もうじきお彼岸だの、今回行ったお寺にはよく来るのか?だの、まあ息つく暇もないくらいにどんどんと喋りまくった。私は少し辟易としながらも、鯉が滝を登るように、バッサバッサと流れ来る止めどない話を右に左に切り分けて、適当に相槌を打ちながら車に揺られ駅を待った。

 

そのときである。

運転手さんが不意に

 

「お客さんが行かれたお寺、いい車が置いてありますよね。」

 

と、ぼそっと話し始めたのである。私は、そういえば複数台、車が留めてあったのは見たなと思ったけれど、それ以上に特に注意を払いもしなかったので「あそこのご住職、いい車お持ちなんですね?」と適当に返事をしたら、運転手さんは「そりゃあ、いい車ですよ!○○の**ですよ!私たちから見るととてもいい車。しかし、お坊さんっていうのは自分では稼がないんでしょ?お布施ですよね?私たちなんて、、、」と自分で火に油を注いでヒートアップし始めたのである。

 

「そうなんでしょうかね」と言いかけて私は、はっとした。

 

これは悪魔の囁きだ!と気付いたからである。

今までの私だったら、先ほどのお説法と今ここの現実は別物だと考えて、こういう運転手さんの口車にふらふらと乗せられ、無自覚にいろいろ喋っただろう。そして「三毒」の海にダイヴしてしまって、妄執の網に絡めとられて、じぇじぇじぇ!となっていただろう。しかし、今回は、はっっっ!!と気付いてしまったのである。このまま行ったら、いずれ何かしらの愚痴が出ると。先ほどご住職が「愚痴なんかは言わないこと!!」と仰ったのに、このまま行ったら愚痴になる!と。慌てて私は口をつぐみ、適当に「へえ」とか「ふう」とか言いながらその場を切り抜けた。

 

かつて、お釈迦さまが、苦行の末に悟りに至られるとき、静かに瞑想していると豊満な美しい女性が3人ほど現れてお釈迦さまを誘惑したという。お釈迦さまは、それが悟りを妨害する魔物の仕業であると見抜かれて、心乱さずその魔物を追い払われたというが(さすが、ゴータマ氏!)、魔の誘惑というのは極めて巧みに忍び寄るものらしい。そして、不意に、しかも気付かなければ気付かずに済んでしまうような極めて些細な姿でひゅっと現れるもののようである。

あぁぁっっ!と思っていると、低い太鼓のような音とともに黒雲がでんでらでんでらやってきて、雨がザーーーっと降り出したかと思うと、ゴーーーっと地響きがして大地がまっぷたつに割れ、稲光がピシャーーーっと光ったかと思うと、大地の割れ目から「あーくまだー!!」(「あー、熊だー」ではない)と現れるようなものではないようなのである(悪魔でもいろんな現れ方があるのかもしれないが)。

 

先のご住職は、法話の中で「行に入っていくとね、試されるということがあるのですよ」と仰った。私は本格的に修行をしているというわけではないし、因縁の麓をウロウロしているだけだから、このお坊さんが仰るところの「試される」というレヴェルはまだまだ到底わからない世界である。しかしながら、よくよく考えてみると、このタクシーでの一件は、なるほど私のレヴェルで「試されていた」のかもしれないな、と思う。

 

「お前は、今日の話を本当に理解したのか?

腑に落として人の話を聴けているか?

慢心で聴いていはしまいか?

そして、聴いたことをきちんと実践できるか?」と

リアルに突きつけられたような気がするのである。

 

 

「試される」・・・

嗚呼、そういうことってあるのかもしれないな。

 

 

 

 

iphoneメールのフォントサイズを元に戻す時の対処法(大きくする方法)。

 

文字がちっちゃくなっちゃったのである!!

iPhoneメールのフォントサイズが。

ほらーー(“ホラー”ではない)。

ね?

 

 

small

 

暫く前に何の前触れもなく、いきなりこんなサイズになっちゃったのだが、

 

おれ、別にいいもーん。字ちっちゃくっても読めるもーん。

おれの、iphone4だしー。そろそろご老齢だしー(“出汁”ではない)。老人性疾患とかだって出てくるお年頃じゃろ?

てゆうかさ、そもそもフォントちっこい方がかっこよくね? it’s so cool!!!, right?

とか必死に思い込みながら、だましだまし使っていたのである。

 

ところが、、、

カラダさんというのは、正直なもので、頭さんがだまされろ!だまされろ!と矢も盾もたまらないほどの指令を全身に送っているのに、カラダさんは

「ちっちゃいフォントってさー、なんかフィットしないよなー。使いづらくね?しっくりこねー。」とか呟き始めたのである!あぁっ!

 

そして、そんなカラダのどこぞの細胞さんの呟きは、retweetにretweetを重ね、どんどん拡散されて、ワタクシもその声を無視できなくなったので、もぞもぞとiphoneの「設定」から、フォントサイズを変えることをひとまず試みたのである。

 

(ちなみに、このやり方は、iphoneの「設定」アプリ→「一般」→「アクセシビリティ」→「テキストを大きな文字で表示」→以下、好きなサイズにする、これでできる)。

 

で、20ptにしてみた。

 

20pt

 

まあ、確かにちょっとでかくなったけど、元通りではない。しかも、なんかちょっと見慣れない。うむ、この方法ではないようだ。

 

まして、56ptとかにしちゃうと、

 

写真

 

こんなオッパッピーなことになちゃうわけで、

なんとも致し方ないでござるのでござる。

てゆうか、1行全角5文字しか入らんし!ありえへん XD

 

で、さらにもぞもぞしてみたのである。

 

そうしたら、案外簡単に元に戻っちゃった。

はいっ、前振りが延々続いたが(おつきあい頂きありがとう^^v)

ladies and gentlemen!!, ここからがこの記事の本題である。

では、そのやり方を以下で”説明しよう!”。

 

【フォントを元のサイズに戻す手順】

1.再起動する

アプリの再起動をする。以上。

おおおおお!!!なんとeasy!!!

 

[補足] アプリを再起動する方法

アプリの再起動の仕方は以下の記事を見てね。

 iphoneアプリがフリーズしたときの対処法。

すると、こうなった。

 

regular

 

あああっっっ!!戻った!!

 

ということで、ワタクシがやり方を忘れないように記録しておくための投稿:「iphoneメールのフォントサイズを元に戻す時の対処法」これにて、めたでしめでたしぃー。(^^)v

 

 

Fly to Paradise!!! [VC4]

 

”飛びたいの。そう、飛びたいの。”

そう呟いて、彼女は飛んだのである。

 

アメリカ人の作曲家Eric Whitacre氏の呼びかけで始まったVirtual Choir の第4弾(Virtual Choir4 “FLY TO PARADISE“ )が完成し、先日公開された。

 

第3弾までの作品は、まさしくChoir!!というにふさわしい荘厳な曲だったし、Virtual Choir 4(以下”VC4”とするね)も、その練習用として楽譜とともに提供された音源は、これまた荘厳な感じだったので、どんな感じになるんだろう?ソプラノソロも入るんだよね?うおーーどんな感じになるの??どきどき。。と期待していた。

 

 

そのうえ、今回わたくしオオタセイイチはテノールとバリトンで初参加したこともあって、その期待はひとしおだったのである。ちなみに、歌っている自分の姿は、まだ1箇所しか確認できておらず、もう一方はどこかの窓にちっちゃくちっちゃくなって入っているかなーーとか思っている。なにせ、歌い手は5905 名!!で、投稿されたビデオクリップは101カ国から、なんと8409個!!もあったというから、比較的大きく映っている姿が1個あれば上等なのかもしれないな。作品の動画は下をみてね。

あ、オオタセイイチを2個みつけたよ!っていう方は教えてね。1個みつけたよ!でもイイヨ。;)

 

余談だが、完成したビデオの最後に流れるクレジットの長さが尋常ではない。歌い手が6000人近くもいて、何人かは私のように複数のパートを歌っているから、8分か9分にわたって、名前だけが流れ続けるというおもしろいことになっている。本編よりもクレジットの方が長いの。。。^^;

 

 

ともあれ、そんな風に出来上がりを人知れずどきどきしながら期待していたのだが、

 

ところが!!!である。シャキーン!!

 

出来上がったYouTubeを見て、おったまげた。

 

6000人近い歌手が”fly to paradise!!”, “fly to paradise!!”と歌う声と、ビートがゴンゴン鳴るRockyな曲が一体となってものすごいパワーというかうねりになり、うおおおおおおおお!!と迫ってきたからである。うおおおおおおおおお!!!!!

 

当初、こんな うおおおおおお!!!な仕上がりになるとは誰が思ったろうか。実は私たち歌い手にも当初からは全容は明らかにされていなかった。徐々にヴェールが剥がされ、最後にどどどーーーん!と新鮮な感動とともに全貌が明かされる手法に、さすがEricだ!!(あぁ。。)と感嘆した。

 

というわけで、初めてこのビデオクリップを観る方も圧倒されると思うが、歌っている私もめっちゃ圧倒されたのである。

 

 

以下のYouTubeクリップが出来上がり作品である。

では、お届けしましょう。

Virtual Choir 4 “FLY TO PARADISE” どうぞ!!女の子の顔がちょっとこわいけど 。

フルスクリーンで見ると迫力あるよ。

 

 

 

 

さて、ロンドンでは、先日11日から14日までバッキンガム宮殿で、エリザベス女王の即位60周年記念イベントが開かれたが、11日のガラコンサートのエリックのステージの時に、このビデオが流れたようである。

その模様のクリップも見つけたので、以下ちょっと拝借。

ちなみに指揮はこの曲を作曲したEric Whitacre氏、歌っている合唱団はBach Choirという合唱団である。

また余談だが、最初に司会をしているのは、ギャレス先生でおなじみのGareth Malone氏!!(だよね?)

 

 

 

 

 

*ちなみに、わたくし、てっきりEricはアメリカ在住のイギリス人だとばかり思っていたのですが、ちょっとググってみたところ、アメリカ生まれ(ネバダ州生まれ)のようなので、上記訂正いたしました。

 

 

mac bookを買い換える。

これまで長らく使ってきたMacBook(黒)が、

長年の(といっても数年…)労苦に堪え兼ねて、
いよいよあの世への特急列車にご乗車になった模様である。

立ち上がりに、なんと30分ほどを要するし、
何か作業をしている時に“虹クルクル”(レインボーカーソル?)、
略して“虹クル”(Askulではない)が
頻繁に出てきてフリーズする始末で、
明らかにHDDがイカレているようなのである。

いろいろ手を尽くして治療を施し、
加持祈祷をしてww恢復を願ったが、
一向に快方に向かわれないので、
黒い子は半分生かしたまま、新たな子を迎えることにした。
3月末のことである。

retina 13インチ。

 

IMG_0889

 

コンパクトながら、iPadよろしく目の覚めるような
鮮やかな画面を持ち、それでいてHDDを持たない分、
静かで、かつ目にも留まらぬ早業で動いてくれるのが特長だ。

容量や値段のこともあって、既存のMacBook proにしようかと
悩んだりもしたけれど、使ってみると、
やっぱりこの子で良かったと思えてくる。
キーボードをUSスタイルにしてしまったので、
最初のうちちょっと使いづらかったが、使い慣れていまは快適である。

 

IMG_0888

 

さて、新たなこの子、名前はなににしようか。

 

 

 

『葛城』の女神と山伏のビミョーな関係について

 

少し遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。
本年も拙いブログをたまーに更新していこうと思っております。
どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

2013初日の出

2013初日の出

 

 

***

さて、先日観た能のレビューである。

 

雪がちらちらと降り出した。
私の乗る電車の窓には、彼方まで白く煙った光景が広がっていた。
雪は次第に深くなり、目の前には奈良の葛城山の木立が広がった。

 

その中を、山形は羽黒山から来たという山伏たちが踏みしめる音だけが響いている。
そんな静まり返った木立の向こうから、誰かの呼ぶ声がする。
かぶる笠を真っ白にして歩いてくる女だった。

 

雪はあとからあとから降ってくる。

 

能『葛城』を観た。

 

降りしきる雪のなか、女は身の苦しさを訴え、山伏たちに加持祈祷を懇願する。女の正体は一言主神。かつて、役小角の怒りに触れ、蔦でぐるぐる巻きにされてしまった哀れな女神である。

 

この『葛城(かずらき)』という能は、『日本霊異記』『今昔物語集』や『源平盛衰記』等に取材したものと考えられているが、これら元の話では一言主は男神である。なぜ、作者は一言主を女神の設定にしたのだろうか。男神では、単に罰を与えられたという点が強調され、たいして演劇的興味の薄い作品になってしまうからであろうか。女神であるが故に、その容貌の醜さがクローズアップされ、一言主のかなしい心情をより豊かに描けると考えたのであろうか。

 

物語によれば、女神は役小角に頼まれた架橋工事を期日までに仕上げなかったために、怠慢であるとして、蔦で縛られたという。それゆえ「怠け者」の神と理解することもできるのかもしれない。だが、この女神が仕事をしなかったのは、怠慢だったからではあるまい。醜い容貌という、どうしようもなく変えることのできない境遇に、必死に悩みながら、恥じながら、人知れずコンプレックスを抱えて生きていかざるを得ない女神の無力感にも似た感情。醜くたっていいじゃないか!と開き直ればよいのかもしれないけれど、しかし思うほど容易にそうすることのできない葛藤。人目を憚り、夜しか活動できなかった彼女のかなしみ。そうした感情たちが複雑に交錯して、昼間、彼女は動けなくなってしまったのではあるまいか。神だって、そうした悶えるような感情を抱えて必死に生きている。そう!神だって!作り物の中から神体となって出てきた彼女の姿に、渦巻く心の様をみたのであった。

 

私たちが自ら選ぶことができず、半ば宿命的に背負わされてきたもの。頭では「もっと自由でいいじゃないか!」と思っても、容易にそれを許さぬ感情。縛られていることで何とか現在を保っているけれど、きつい、苦しいと常に気にかかって離れぬもの。こうした私たちをガンジガラメにしているもの、そんなものの象徴が女神を縛っていた蔦なのかもしれない。

 

そう考えてみると、この能に出てくる「蔦」というのは、役行者が女神に科した「罰としての蔦」であるとともに、私たちが自分で巻いている(あるいは各々の境遇の中で巻かざるを得なかった)「自縛の蔦」という意味を読み取ることもできそうである。

 

能ではこの後、山伏たちの加持祈祷によって蔦の呪縛が解かれ、女神は自由の身になって舞を舞う。今回は「大和舞」の小書(こがき;特殊演出のこと)が付いていたので、女神は囃子に乗って大和舞(やまとのまい)を舞っていた。能の解説書などには、この舞囃子部分は「蔦の呪縛から解放された喜びを表現している」などと書かれている。上述のような重層的な見方をすれば、このおおらかな舞を、長年苦しんできたコンプレックスの解放、現在のわたしに信頼を取り戻しかけた女神の生きる力の表現などとみることができよう。

 

苦しみから解放されることはたしかに喜びではある。

けれども、わたしたちはそう単純ではない、ということを、さらにこの能は教えているようにも思われる。女神はこの舞囃子部分を舞った後、山伏たちに感謝を述べ、「私は、夜が明ける前に失礼します」と言い残して消えてゆく。蔦が解放されてもなお、女神は恥じらいや人目を憚る感情をどこかに残している。

 

こうして考えてくると、この能は「私たちというのは結局のところ、こうした負の感情からどうしても離れられない存在なのだ」という、半ば諦めにも似たメッセージを送っているようにも思われてくるのだが、本当にこの曲の作者はそのようなことを訴えたかったのか。私にはそうは思われないのである。今回の舞台を観て、私が「はっっっ!」とさせられた一場面がこの点に関わる。ひとときの夢物語が終わろうとするキリの終盤の部分で、山伏が常座の位置から、橋掛リに消えてゆく女神の背中をずっと見送っていた(それは、山伏であるワキ方の退場の体だったのかもしれないが、すくなくとも私には「見送っている」ように思われた)。その見送る姿に私は、山伏が女神に「大丈夫だ、あなたならやっていける、何も心配することはないのだ。」と声を掛けている気がした。山伏の姿ーーそれは、わたしたちを静かに見守っている、どこかに現在するわたしたちの姿である。私たちが日常、時として、どうしようもなく変えることのできない境遇を前に絶望の淵に立たされているように感じたり、人知れずコンプレックスに悩まされたり、あるいはもっと些細な困難に直面しながらもがいていたとしても、もう生きていけないと悲嘆に暮れていたとしても、わたしたちの内にあって、しずかにわたしたちを見守り、しずかに語りかけてくれる存在。それが、「山伏」である。そう、私は直感した。たとえ地球上のすべての人に見放されたとしても、わたしの内にいるわたしは最後までわたしの味方である。
複式夢幻能という、世阿弥が構築した能の仕掛けを駆使しながら、この能がわたしたちに語りかけるものは大きい。

 

演者がすべて退場し、すべてが無に還った能舞台には、さわやかな風が残っていた。鏡板の老松はいつものように威容を放っていた。そうか、選曲をした人は、このさわやかさを残さんがために、新年の舞台に『葛城』を持ってきたのかと、ひとり納得したのであった。
外に出ると、いつしか雪はやみ、いくつもの星が瞬いていた。