ことしもおわり。

夕暮れて、
夜もだんだん更けてゆき、
今年もだんだん更けてゆく。

平成28年も、もうじきおわり。

今年も変化に富んだ一年だったな。
別れはほとんどなかった記憶だけど、
新たなる出会いがあったり、
一歩を踏み出す経験があったり、
世代を超えて歌をうたったり、
ン十年ぶりの再会があったり。

一年のおわりに熱い珈琲と深呼吸をして、
ちょっとひといき。

さて、今年が終わると休みなくやってくる来年だが、
平成29年は今年以上に、もっともっと変化に富んだ
豊穣な一年になるだろう。

そんな気がしている。

2017年が国内でも世界の各々の地域においても、
身近なみなさんにとっても、
穏やかで光あふれる一年になりますように。

お。来年の足音が聞こえてきたようだ。
聞こえるでしょ。
みなさん、よいお年を。

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ぐるぐるしながら ―しりあがり寿氏『回転展』―

先日まで、県内の美術館で開催していた、しりあがり寿さんの「回転展」を観に行った記録である。

***

ずっと観たい観たいとは思いながら、なかなか行けないなー。いつ行こういつ行こうかなーと思っていて、日にちが過ぎていた。ある午後、なんとなくウェブを見ていたら、その日はなーんと夜間開館で20:00まで美術館が開いていた!!

もうじき会期が終わってしまう!!これは行かぬテはなかろうと、即断即決で行くことに決めて家を飛び出した。

***

さて。
前情報ではいろんなものが回っているよーと聴いてはいたが、実はわたくし、あまりしりあがりさんの作品ってよく存じ上げなかったので、イマイチイメージが掴めなかった。

しかし、会場に入って、漫画の原画などに圧倒されて、2階の展示室に入った途端、いろんなものが、たしかに、そう、確かに、回転していたのである。ぐるぐる。ぐるぐる。

回転している間だけが芸術というヤカンのまわりをぐるぐるしながら、やかんが回転しているのか、はたまたわたしが回転しているのかわからなくなるという、やや倒錯的な状況に陥ってみたり、身近な日常品たちがぐるぐるしている白い部屋の真ん中で、ひとりぐるぐるしているうちに、わたしも小物たちの一部に同化していくようなトランスな感覚になったりして、なんだか哲学的な気分になってきてひとり楽しくなってきたのである。

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考えてみれば、私たちの地球もぐるぐるしているから、風が吹いたり、四季の変化が起こったり、社会が動いたりしている。地球が自転をやめ、公転をやめてしまったら、私たちは生きていけないのかどうかはわからないけれど(小学生の頃、「地球が止まったら、おれたち死ぬねんぞ―」などと言っていた記憶があるんだけど。)、少なくとも、現在のような環境ではいられないのだろう。もっとも地球が自転しなかったら、昼夜はなくなるよね。日本もずっと昼間か、ずっと夜になっちゃうね。そうだとすると、ぐるぐるするということは、私たちにとって根源的に重要な営みだということになりそうである。したがって、血液氏がわたしたちの体の中をぐるぐるしてくれているから、私たちが生きていられるなどということを敢えて出すまでもなく、お抹茶の横で羊羹がぐるぐるするのも、えびふりゃーがぐるぐるするのも、床の間の軸がぐるぐるするのも、宇宙にとって重要な営みなのだろう。

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そんなことを考えながら、へえ、“いもかわうどん”なんて初めて聞いたななどと思いながら障子漫画を見ていたら、はーい!閉館ー!!という時間になったので、歩いても歩いても距離の変わらぬ透き通った三日月と一緒に、夜寒の風に吹かれて(blowin’ in the wind)駅へと足を早めたのであった。

この展覧会、このあとどこかに巡回するとのこと。もう一回見に行こうかな♪

*回転する羊羹の動画はこのブログに付けられないようなので(無料版では動画が付けられないっぽい)、twitterか何かに載せることにしましょうか。

ボッサブックスの閉店

熱いコーヒーを淹れようと、お湯を沸かしている間に、ひさびさにブログを書いてみる。

さて。
先日、読んだ本の整理なんかをしようとPCをもさもさといじっていたら、ボッサブックスが消えていたのである!!

ボッサブックスは、ブクログや読書メーターなどのように、書籍についてのウェブサービスである。ブクログなどほど、SNS度は高くなく、あくまで読んだ本や興味のある本、DVDなどをバーチャルな本棚に追加し、まとめていくというサービスである。そして、公開の本棚がブログパーツにも繋がっており、ブログやホームページの横に、ちこっとつけることができた。

このシンプルで、デザイン性にも優れたサービスが昨年9月末をもって終了していたのだ。
読書好きとガンガン繋がろうとか、読書量を記録しようみたいな、ガツガツ感が全然なく、おしゃれなバーチャル書店にほっておかれる感じが好きだった。その「放っておかれ感」は現実の本屋さんにも近いもので心地良かった。実際に、ボッサブックスのサイトは、書店のようになっていて、各階に各ジャンルが配置されているような作りになっていた。カフェもあって、そこでは本好きが各々本について語り合っていた。

こんな自由な空間だったから、私は興味のある本も含めて、相当数のナンバーを本棚に収めていたが、それらデータも全て消えてしまったようだ。

閉店が、昨年の9月30日。
その直前には、蔵書データーをバックアップにとることもできたようであるが、半年以上も経った今頃閉店に気づいた私は、その機会も逸した(去年、メールでのお知らせなんて来てたかなあ。見逃したなあ。)。

閉店の理由は、いくつかのブログを拝見すると、経営の困難だったということらしい。確かに、昨年の夏頃に本棚を整理した時は、システムの手入れが進んでいないような感じがしていた。
素敵で使いやすいサイトだっただけに、とても残念である。暫くブランクを経てもいいから、また再開してくれればいいなと思っている。

ブックスといえば、
リアルな書店も経営が難しくなっていると言われて久しい。
リアルな本屋さんのことは、また機会を改めて書くことにしよう。

お、そろそろお湯が湧いてきたようだ。

あけまして。さて、

2015年が明けました。ぱかっ。
皆様あけましておめでとうございます。
昨年は拙ブログへの多くのアクセスを頂きありがとうございました。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
長らくこのブログも投稿できずに月日ばかりが流れ、いよいよ閑古鳥もどこかに飛び去ったか?と思っていたところ、年まで明けてしまいました。

家のしつらえやお正月のお料理なんかからも、おお、お正月だなとは思ったのですが、新春の能を観て改めて、おお、やっぱりお正月だと思ったのでありました。

さて、古来、一年の計を元旦に立てるといいますが、私も元旦にいくつか計を立てました。
そのうちの一つが、このブログをもう少し頻繁に更新してみようかということ。「更新するぞ!」とか「更新します!」という決意に満ちたものではなく、「してみようか」という聊か軟弱左衛門なところがすでに心配なところではありますが、このくらいの緩やかな意思で今年もぼつりぼつりと続けていこうかと考えております。

この一年をどんな年にしようかと計を練ることも面白いのですが、今年はどんな年になるか?と占うのもまた面白いもの。私は年頭にアニマルカードを引いたところ、大きなブレイクスルーのための準備をせよ、と出てきました。
さてさて面白くなってまいりましたぜ!!今年はどんな一年になるでしょうか。

とざい とーーざーーい!!

ダライ・ラマ法王による胎蔵界灌頂へ

 

春である。久しぶりのブログ更新である。

今回は、先日受けたダライ・ラマ14世法王による胎蔵界灌頂のおはなし。

 

**

 
先日、高野山大学で開壇された、ダライ・ラマ14世法王によるチベット密教の胎蔵界灌頂に参加させて頂いた。私は2年ほど前の金剛界灌頂の時も参加の機会に恵まれたので、これでチベット密教の金胎両部の灌頂を法王さまから直接頂いたことになる。

 

今回私は日程の都合上、2日目の早朝に高野山に上って灌頂を受け、その日のうちに帰途につくという、強行スケジュールになったが、灌頂儀式の方も、1日ですべてを終えるというなかなかに密度の濃いというか、内容の濃いプログラムであった。しかも、事前に通知されていた予定変更では、朝から灌頂となっていたところ、会場に入ってみるとさらに変更があり、まずは前日の法話の続きから!ということで、幸いにも法王様の法話もお聴きすることができたのだった。いぇい!♪聞くところによれば前日の法話も、予定より早く始まって、かなり延長なさったというから、法王様の心意気たるや相当なものである。うお、法王様、やる気まんまんー。

 

さて、灌頂の儀式というのは、とても複雑な手順を踏むものであると聴く。私がこれまで数度受けたことのある日本での結縁灌頂でも、私たち受者が参加するいわばクライマックスの部分は一部分であって、そこに至るまでには様々な作法や儀式が行われているという。今回受けたチベット式の灌頂も例外ではなく、多くの儀式・作法によって成り立っているようで、そのゆえなのか、チベットにおいても、こうした胎蔵界や金剛界の灌頂はめったに開壇されないと聞いた。そうであるならば、今回私は極めて貴重な歴史的な機会に立ち会うことができたということがいえるかもしれない(ちょっと大袈裟?—あぁ、大袈裟って大きな袈裟って書くね。いま気付いたよ。仏教用語??)。

 

今回の灌頂は、日程的に確かに過密だと感じた。だがそんな中にあっても、法王様は一つ一つの作法を実に丁寧に修され、時にほっほっと笑われるなどユーモアにあふれ、何よりひとつひとつに心を込めて私たちにお授け下さった。法王様のそのお心には感謝するばかりである。

 

今回、灌頂を通して体験したことや感じたことを心に留めながら、泥の中から透き通るような花びらを静かに広げる蓮華のような、そんな心持ちでこれからの生活をしようと思ったのである。

 
《付記》
今回も、金剛界のときと同様、砂曼荼羅が作られていた。あの精緻さといい、美しさといい、何度見ても、あれは本当にすばらしい「作品」である。この灌頂のために長い時間をかけ、気の遠くなるような細かな作業に尽力されたチベット僧の方々に敬意を表したい。

 

 

響きあうことば

 

前回の更新から、もう随分とブランクが空いてしまったが、気付いてみると既に2014年の声を聞いて1ヶ月が経っている。平成もはや26年目に突入したらしい。この期に及んで、あけまして!も些か変だけれどーいや、陰暦のお正月を迎えたので、それに合わせて敢えて、あけまして!もいいかもしれないー今年もまた、遅々として進まぬ本ブログの更新をちょこっとずつやっていこうと思っている。気長におつきあい頂ければ、幸いである。今年もどうぞ宜しくお願い致します。

 

***

 

さて。

 

私たちは大きな流れに押し流されながら生きている。

 

最近そんなことを考えている。

1年、1ヶ月、1週間・・・という時間は最近特に早く、あっという間に時が流れてゆくと感じることしばしばで、「時」の流れに押し流されるということも感じるが、同時に流されている感の募るものが「情報」である。どっどどどどうど、どどうどどどう♪

 

「情報に流されてはいけない」とか「情報に支配されるのではなく、情報を選択・制御しよう」などといった言葉たちは既に使い古され、いわゆる「メディアリテラシー」という言葉なども耳に胼胝ができるほどに浸透した。しかしながら、そうした言葉を知っていても、あるいはいくらか意識的に情報を制御しようと試みても、広大なる海の中でなお押し流されている感が否めないというのは正直なところである。沖から寄せる荒波に揉まれ、剥がれかかりながらも辛うじて岩にしがみついているワカメのようなものである。

 

そんなワカメが、大量に、そして凄まじい速度で轟々と流れ去る情報の波に抗いながら、目の前を行き過ぐ、きらりと光る魚たちを記録しておこうと思ったのである。これは、ワカメの、ワカメのための記録であり、密かなる抵抗である。魚たちは主に、世界に溢れることばたちである。私が誰かとコーヒーの湯気の中で話しているとき、その誰かが語ったことば、セミナーなどに出た時に、そこで出てきたことば、テレビやラジオやインターネットで誰かが語ったことば、読んだ本の中で著者が語ったことば、映画の中の台詞、そして誰かが雑踏の中で呟いたひとりごと。

 

そんなことばたちを少しでもブックマークし、記録しておこうとtwitterで【響きあうことば】という連載を始めることにした。これまで私が気になっていくつかブックマークしたことばたちを考えると、出典も発話者も、まして時代も別々であるのに、あたかも通奏低音のように、現代を取り巻きながら響きあっている気がする。そんな感覚がこの題名にさせたように思う。

時、折しも新年であるし、新企画を始めるには良い頃である。

 

これを始めるにあたって、いくつかルールを考へた。

まったく不定期に、まったくきまぐれに更新すること、出典のあるものはできるだけそれを明らかにすること、特に日本語には限らないこと、などである。

 

まったくの思いつき企画であり、まったくキマグレンに始めてみることにする。だから、「唯、憤懣(ふんもん)の逸気を写せり。誰か他家(たか)の披覧を望まむ」(空海『三教指帰』序) ものである。

投稿などは私のtwitterにて。

 

と、こんなことを本当はtwitterで書きたかったのだけれど(ブログとtwitterで分離しちゃうと意味がよくわからなくなるからね)、ある程度の文章量にもなったし、およそ140文字では収まらないので、こちらに書くことにした。

さてこのひそかな試みはどうなるのであろうか。

 

試される。

 

うおーーー。毎度毎度だけれど、久しぶりの更新である。

最低でも月1の更新を、という努力目標は先月はまんまと破られたので、

今月はなんとか最低でも1回は更新してみようという所存である。

 

さて、本題に。

 

 

***

 

 

「試される」ということはあるのかもしれない。

先日体験した些細なできごとである。

 

その日は、あるお寺にお参りに出かけ、お勤めやご住職の説法をお聞きするなどして帰ってきた。お説法ではいろいろなお話がポンポンと出てきたが、その中で「日々生活する中で、人を妬んだり、恨んだり、愚痴を言うなどツマラナイコトをしないこと。それを今日から、いや今から実践しましょう。」というお話があった。

 

本堂で座って聴いているときは「なるほど、人を妬んだり、恨んだり、愚痴を言うということは良くないな。気をつけよう。」くらいに思っていて、自分はあんまりそういうことってしない方じゃないかな、なんて思っていた(他人から見たら案外愚痴っぽかったりして。うへへ)。

 

一連の次第が終わって、次の用事も控えていたため、私はお寺からタクシーを走らせて駅に向かった。タクシーの運転手さんはいい人だがよく喋る人で、そこの町ではもうじき大きなイベントがあるだの、その辺りは朝夕と昼間の気温差が大きいだの、もうじきお彼岸だの、今回行ったお寺にはよく来るのか?だの、まあ息つく暇もないくらいにどんどんと喋りまくった。私は少し辟易としながらも、鯉が滝を登るように、バッサバッサと流れ来る止めどない話を右に左に切り分けて、適当に相槌を打ちながら車に揺られ駅を待った。

 

そのときである。

運転手さんが不意に

 

「お客さんが行かれたお寺、いい車が置いてありますよね。」

 

と、ぼそっと話し始めたのである。私は、そういえば複数台、車が留めてあったのは見たなと思ったけれど、それ以上に特に注意を払いもしなかったので「あそこのご住職、いい車お持ちなんですね?」と適当に返事をしたら、運転手さんは「そりゃあ、いい車ですよ!○○の**ですよ!私たちから見るととてもいい車。しかし、お坊さんっていうのは自分では稼がないんでしょ?お布施ですよね?私たちなんて、、、」と自分で火に油を注いでヒートアップし始めたのである。

 

「そうなんでしょうかね」と言いかけて私は、はっとした。

 

これは悪魔の囁きだ!と気付いたからである。

今までの私だったら、先ほどのお説法と今ここの現実は別物だと考えて、こういう運転手さんの口車にふらふらと乗せられ、無自覚にいろいろ喋っただろう。そして「三毒」の海にダイヴしてしまって、妄執の網に絡めとられて、じぇじぇじぇ!となっていただろう。しかし、今回は、はっっっ!!と気付いてしまったのである。このまま行ったら、いずれ何かしらの愚痴が出ると。先ほどご住職が「愚痴なんかは言わないこと!!」と仰ったのに、このまま行ったら愚痴になる!と。慌てて私は口をつぐみ、適当に「へえ」とか「ふう」とか言いながらその場を切り抜けた。

 

かつて、お釈迦さまが、苦行の末に悟りに至られるとき、静かに瞑想していると豊満な美しい女性が3人ほど現れてお釈迦さまを誘惑したという。お釈迦さまは、それが悟りを妨害する魔物の仕業であると見抜かれて、心乱さずその魔物を追い払われたというが(さすが、ゴータマ氏!)、魔の誘惑というのは極めて巧みに忍び寄るものらしい。そして、不意に、しかも気付かなければ気付かずに済んでしまうような極めて些細な姿でひゅっと現れるもののようである。

あぁぁっっ!と思っていると、低い太鼓のような音とともに黒雲がでんでらでんでらやってきて、雨がザーーーっと降り出したかと思うと、ゴーーーっと地響きがして大地がまっぷたつに割れ、稲光がピシャーーーっと光ったかと思うと、大地の割れ目から「あーくまだー!!」(「あー、熊だー」ではない)と現れるようなものではないようなのである(悪魔でもいろんな現れ方があるのかもしれないが)。

 

先のご住職は、法話の中で「行に入っていくとね、試されるということがあるのですよ」と仰った。私は本格的に修行をしているというわけではないし、因縁の麓をウロウロしているだけだから、このお坊さんが仰るところの「試される」というレヴェルはまだまだ到底わからない世界である。しかしながら、よくよく考えてみると、このタクシーでの一件は、なるほど私のレヴェルで「試されていた」のかもしれないな、と思う。

 

「お前は、今日の話を本当に理解したのか?

腑に落として人の話を聴けているか?

慢心で聴いていはしまいか?

そして、聴いたことをきちんと実践できるか?」と

リアルに突きつけられたような気がするのである。

 

 

「試される」・・・

嗚呼、そういうことってあるのかもしれないな。