『葛城』の女神と山伏のビミョーな関係について

 

少し遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。
本年も拙いブログをたまーに更新していこうと思っております。
どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

2013初日の出

2013初日の出

 

 

***

さて、先日観た能のレビューである。

 

雪がちらちらと降り出した。
私の乗る電車の窓には、彼方まで白く煙った光景が広がっていた。
雪は次第に深くなり、目の前には奈良の葛城山の木立が広がった。

 

その中を、山形は羽黒山から来たという山伏たちが踏みしめる音だけが響いている。
そんな静まり返った木立の向こうから、誰かの呼ぶ声がする。
かぶる笠を真っ白にして歩いてくる女だった。

 

雪はあとからあとから降ってくる。

 

能『葛城』を観た。

 

降りしきる雪のなか、女は身の苦しさを訴え、山伏たちに加持祈祷を懇願する。女の正体は一言主神。かつて、役小角の怒りに触れ、蔦でぐるぐる巻きにされてしまった哀れな女神である。

 

この『葛城(かずらき)』という能は、『日本霊異記』『今昔物語集』や『源平盛衰記』等に取材したものと考えられているが、これら元の話では一言主は男神である。なぜ、作者は一言主を女神の設定にしたのだろうか。男神では、単に罰を与えられたという点が強調され、たいして演劇的興味の薄い作品になってしまうからであろうか。女神であるが故に、その容貌の醜さがクローズアップされ、一言主のかなしい心情をより豊かに描けると考えたのであろうか。

 

物語によれば、女神は役小角に頼まれた架橋工事を期日までに仕上げなかったために、怠慢であるとして、蔦で縛られたという。それゆえ「怠け者」の神と理解することもできるのかもしれない。だが、この女神が仕事をしなかったのは、怠慢だったからではあるまい。醜い容貌という、どうしようもなく変えることのできない境遇に、必死に悩みながら、恥じながら、人知れずコンプレックスを抱えて生きていかざるを得ない女神の無力感にも似た感情。醜くたっていいじゃないか!と開き直ればよいのかもしれないけれど、しかし思うほど容易にそうすることのできない葛藤。人目を憚り、夜しか活動できなかった彼女のかなしみ。そうした感情たちが複雑に交錯して、昼間、彼女は動けなくなってしまったのではあるまいか。神だって、そうした悶えるような感情を抱えて必死に生きている。そう!神だって!作り物の中から神体となって出てきた彼女の姿に、渦巻く心の様をみたのであった。

 

私たちが自ら選ぶことができず、半ば宿命的に背負わされてきたもの。頭では「もっと自由でいいじゃないか!」と思っても、容易にそれを許さぬ感情。縛られていることで何とか現在を保っているけれど、きつい、苦しいと常に気にかかって離れぬもの。こうした私たちをガンジガラメにしているもの、そんなものの象徴が女神を縛っていた蔦なのかもしれない。

 

そう考えてみると、この能に出てくる「蔦」というのは、役行者が女神に科した「罰としての蔦」であるとともに、私たちが自分で巻いている(あるいは各々の境遇の中で巻かざるを得なかった)「自縛の蔦」という意味を読み取ることもできそうである。

 

能ではこの後、山伏たちの加持祈祷によって蔦の呪縛が解かれ、女神は自由の身になって舞を舞う。今回は「大和舞」の小書(こがき;特殊演出のこと)が付いていたので、女神は囃子に乗って大和舞(やまとのまい)を舞っていた。能の解説書などには、この舞囃子部分は「蔦の呪縛から解放された喜びを表現している」などと書かれている。上述のような重層的な見方をすれば、このおおらかな舞を、長年苦しんできたコンプレックスの解放、現在のわたしに信頼を取り戻しかけた女神の生きる力の表現などとみることができよう。

 

苦しみから解放されることはたしかに喜びではある。

けれども、わたしたちはそう単純ではない、ということを、さらにこの能は教えているようにも思われる。女神はこの舞囃子部分を舞った後、山伏たちに感謝を述べ、「私は、夜が明ける前に失礼します」と言い残して消えてゆく。蔦が解放されてもなお、女神は恥じらいや人目を憚る感情をどこかに残している。

 

こうして考えてくると、この能は「私たちというのは結局のところ、こうした負の感情からどうしても離れられない存在なのだ」という、半ば諦めにも似たメッセージを送っているようにも思われてくるのだが、本当にこの曲の作者はそのようなことを訴えたかったのか。私にはそうは思われないのである。今回の舞台を観て、私が「はっっっ!」とさせられた一場面がこの点に関わる。ひとときの夢物語が終わろうとするキリの終盤の部分で、山伏が常座の位置から、橋掛リに消えてゆく女神の背中をずっと見送っていた(それは、山伏であるワキ方の退場の体だったのかもしれないが、すくなくとも私には「見送っている」ように思われた)。その見送る姿に私は、山伏が女神に「大丈夫だ、あなたならやっていける、何も心配することはないのだ。」と声を掛けている気がした。山伏の姿ーーそれは、わたしたちを静かに見守っている、どこかに現在するわたしたちの姿である。私たちが日常、時として、どうしようもなく変えることのできない境遇を前に絶望の淵に立たされているように感じたり、人知れずコンプレックスに悩まされたり、あるいはもっと些細な困難に直面しながらもがいていたとしても、もう生きていけないと悲嘆に暮れていたとしても、わたしたちの内にあって、しずかにわたしたちを見守り、しずかに語りかけてくれる存在。それが、「山伏」である。そう、私は直感した。たとえ地球上のすべての人に見放されたとしても、わたしの内にいるわたしは最後までわたしの味方である。
複式夢幻能という、世阿弥が構築した能の仕掛けを駆使しながら、この能がわたしたちに語りかけるものは大きい。

 

演者がすべて退場し、すべてが無に還った能舞台には、さわやかな風が残っていた。鏡板の老松はいつものように威容を放っていた。そうか、選曲をした人は、このさわやかさを残さんがために、新年の舞台に『葛城』を持ってきたのかと、ひとり納得したのであった。
外に出ると、いつしか雪はやみ、いくつもの星が瞬いていた。

 

 

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『葛城』の女神と山伏のビミョーな関係について」への2件のフィードバック

  1. 蔦が、「罰としての蔦」であるとともに、自分で巻いてきたコンプレックスであり、その解放の物語と読む。…確かに!

    どう読めるかって、自分が体験したこととシンクロするから(このケースの場合きっと特に)、その人の人間性の深さを表すよね。こんな風に読んでたなんて、すごいなあ。

  2. >ともゑちゃん
    書き込みありがとう。
    そうだね。能って舞台もストーリーも比較的シンプルだから、いろんな見方や解釈が可能だね。人によってもそれは違うし、その時々の観る側のコンディションによっても変わってくるね。
    機会があればまた行こう。

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